2013-01-01から1年間の記事一覧

Alfa Romeo TZ2

Mercedes-Benz 300SL

「最善か無か」 古き良きメルセデスの名キャッチコピーである。 現代のメルセデスが、とても「最善」とは思えないが、50年以上前は「最善」のメルセデスが存在していた。300SL である。群馬県太田市の隣町にある、ガレージ・ルディの展示車である。 http://…

Garage Rudi

スバルの聖地、群馬県の太田市の隣町にあるガレージ・ルディ。 http://www.rudi.jp/ 黄金連休に行って来ました。 店名は、あの偉大なるレーシングドライバー、カラツィオラの愛称からとっているそうだ。まさに桃源郷のような車種構成。夢のような時間でした。

旧石川組製糸西洋館

四輪驅動車の御意見番である石川さんに誘はれて、入間市にある舊石川組製絲西洋館を見學した。 石川組製絲とは、石川幾太郎が明治26年(1893)に創始した製絲會社である。當初はわづか20釜の坐繰製絲(手工業)でスタートしたが、明治27年にはいち早く蒸氣力…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part14 総崩れとなった全金プリンス労組

http://www.jmiu-nissan.com/history.html 日産とプリンスの合併が発表されると、日産労組はデマゴギーに打って出た。 「日産側労組は、プリンスが日産に吸収合併されたのだから、そのうちプリンスの製品はなくなるといった悪質なデマを流し、まず血祭りとし…

亀有の夜 NASCAR 1967〜1971レース

RSCC今年度第2回目のレース。またもや優勝はSさん! 賞品のポーシェをかっさらっておりましたよ。自分はと言えば、言わぬが花でございます(T_T)

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part13 

塩路の主導する日産労組のプリンス労組に対する攻撃は、熾烈を極めた。プリンスの本拠であった立川、吉祥寺、武蔵境、国立の旅館などに、いわゆる「日産学校」が開設され、各個撃滅の体制がとられた。ことに特筆されるのは、両親説得工作である。係長たちが…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part12 プリンス労組への謀略

塩路のプリンス労組攻略は、「えげつない」手法がとられた。プリンス労組の永井委員長に対する露骨な誘惑である。 塩路は、 「日産労組とプリンス労組が円滑に統一された場合、2〜3ヶ月間アメリカにでも、希望するならソ連にでも出かけたらどうか」 と永井…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part11 

1965年7月7日、塩路一郎がジュネーブでのILO(国際労働機関)総会から帰国した頃から、「自動車労連が同盟を脱退し、総評傘下の全国金属に加盟するのも一つの方法だと思う」と対決姿勢をあらわにしていたプリンス労組はしだいに腰砕けとなってしまうのだ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part10 プリンス労組潰しで川又と塩路の「あうんの呼吸」

第2組合委員長3代目の塩路の時代になって、日産の組合は、一段と強固なものになったのは事実だ。塩路は「天皇」と影で言われる存在となった。塩路は日本油脂労組のときから、労組幹部がデマの流布に狂奔していると見るや、直談判して、堂々と反対意見を述…

’66 第3回日本GP 観戦者の視点から

故Y氏の御遺族から許可を頂き、貴重な第3回日本GP観戦時の写真をここに掲載する。 Porsche 906ミツワでの内覧会だろうか? 左端がY氏、その隣が滝進太郎。 航空運賃込の車両価格は当時1,076万円。いまの貨幣価値で1億円というところだろう。 スタート…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part9 醜態を晒した宮家愈の職場復帰

1961年3月、委員長である宮家愈の職場復帰が課題となっていた頃、塩路は宮家に突然呼び出された。 「俺の後をたのむ。君の才覚、勇気と行動力を見込んでのことだ」 と宮家に頼まれた塩路は、委員長の座を譲り受ける事とした。 宮家はスタッフとして常任およ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part8 日産に入社した塩路

1953(昭和28)年4月、塩路一郎は日産自動車に入社した。日産を選んだ理由は、「月給の高い会社」ということだった。当時の日産はトヨタを抜いており、国産車最大のメーカーであった。日産労組は敗戦翌年の1946年に結成されたが、年ごとに勢力を増し、賃上げ…

Octane(オクタン)日本版創刊プレイベント

日本版オクタン創刊号。中身を見ましたが、かなり写真がきれいで質の良い雑誌です。 今月26日に店頭に並ぶようですが、既存の自動車雑誌業界に新風を吹き込んで欲しいものですね。

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part7 日本油脂で味わった共産党への失望

塩路一郎は、ある意味、社長の川又よりも日産では輝かしい存在であった。彼は労働争議で悪戦苦闘した日産の労働組合を一本化して、強力な統率のもとに、労使協調を実現化した最大の功労者であったからだ。塩路が自動車労連の会長として、豪華な自動車労連ビ…

クライスラー・イプシロン ゴールド

日本ではクライスラーのブランドで販売されるランチア・イプシロンを1週間借りることができた。日本では英国同様にクライスラー・ブランドで販売される。泡沫経済の末期、マツダとの提携が失敗に終わってから、ランチアは日本では正規輸入されていないからだ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part6 日産の逆粉飾決算にたいする塩路の見解

1966(昭和42)年5月26日、大蔵省から、利益の多い大企業の利益処分に関連、いわゆる「逆粉飾」にたいして警告が発せられた。逆粉飾とは、出すべき利益を表面に出さず、諸引当金の形で内部留保することである。この内部留保にさいしては適正な税法上の措置を…

亀有 3.16

スーパーバードのシェイクダウンは終了。やはりハイウィングは重心が高くて難しい。モグラ親父さんによって、ガタだしも行ってもらった。あとはフロントタイアを1mm削ってガイドが抜けにくくすることと、モーターをヘリテージのものにデチューンする必要が…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part5 幻の川又追放人事

川又が、労組に対し信頼をおいていたのには、大争議以外にも理由がある。1955年に起きた、幻のクーデターだ。もちろん、日産の社史からは抹殺された事件だ。 大争議での疲弊と、その直後の不況を克服した日産。ようやく経営に見通しがついてきた1955年の春。…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part4 塩路天皇

今年の2月1日、自動車労連元会長の塩路一郎が死んだ。86歳であった。 彼は、日産・プリンス合併の頃、肩幅が広くガッチリとした体型が頼もしい男だった。そして、その奥に潜む闘志は相当なもので、労組委員長としてこの男を敵に回したら、へたな経営者はあ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part3 歴史的な日産大争議

川又克二が日産社長の椅子に座ることとなった決定打は、歴史的な日産大争議の解決者だったことだ。川又は日産に乗り込むや、 「会社再建のためには人的整理の蛮勇をふるう以外に道はない」 と決意、組合と全面衝突となった。1949(昭和24)年9月のことである…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part2 川又が日産社長となった背景

日産の川又社長が、労務対策に関して大いに自信があったのには理由がある。川又は、1947年7月に、興銀の広島支店長から、日産自動車の常務として送り込まれ、赴任早々、日産の歴史的なストライキに直面、否応なくその対策に乗り出さねばならなかったからだ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part1

異なる会社が合併しても、同じ経営者であり、株主であり、労働者であるから、その根本の理念、利害関係は、経営者同士、共通しており、同様のことが、株主、労働者にもいえるはずだ。特に労働者は、その共通点が濃厚であり、決定的であるように思われる。古…

東京・愛宕 NHK放送博物館 Part2

1926年(大正15年)12月25日、高柳健次郎(後の日本ビクター副社長)が濱松高工にてブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功した。此れは、其のテレビ傳送實驗裝置の再現展示。映し出されたのは「イ」の文字だつた。 ヒトラーの伯林オリンピックで世界初…

東京・愛宕 NHK放送博物館

23區内に有る貴重な山、愛宕山。標高が25.69m。まあ、山と云つても丘ですがね。 トンネル手前左脇の裏參道を登つていくと、、、 NHK放送博物館がある。1956年に、世界最初の放送專門のミュージアムとして、“放送の故郷”であるところの愛宕山に開館したらしい…

昨日の亀有

4月20日土曜日に開催されるNASCAR(1967〜1971)レースの練習。写真を撮ってないが、自分はカレラのプリマス・スーパーバードのペティー仕様で参加することにした。 NASCARは大柄なボディによりサイドバイサイドの接触事故でレースそのものが実車同様に荒れる…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part17 突然、大衆車サニーを売れと言われても

旧プリンスの販売店には、大株主である石橋正二郎にたいする憧れもあり、同時に御料車とエンジン技術に一種の郷愁的な感情があった。それでプリンス系販売店会議で、車名変更に関する販売店オーナーの抗議に同調する空気が生まれたのであった。 日産プリンス…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part16  石橋に相談もなく決められた車名変更

グロリアからプリンスの4文字を削除した車名変更問題に関して、石橋相談役には一切、話がなかったと言われている。川又社長は、当時の経済評論家に対し、 「発表の直前に、石橋さんに報告、了解してもらった。だから、ぜんぜん相談しなかったわけではない」…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part15 哀れプリンスの名が消滅へ

1967年4月12日、東京・高輪のプリンスホテルで、日産自動車の新車発表パーティーが開催された。この日、日産グロリア新発売と書かれた赤い垂れ幕が、おりからのスモッグで汚れた東京の空に高く上がった。その鮮やかな色のアドバルーン(最近、見かけませんな)…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part14 トヨタ勝又グループの不都合な過去

合併が地方販売店に与えたショックを示す典型的な事件として、千葉プリンスと埼玉プリンスの例があげられる。この両販売店とも、その経営者は同一人物である。社長の勝又豊次郎は、この地域の自動車ディーラーを当時支配していたし、その息子たちが後継とな…