日産とプリンス合併の労組問題。。。Part13 

 塩路の主導する日産労組のプリンス労組に対する攻撃は、熾烈を極めた。プリンスの本拠であった立川、吉祥寺、武蔵境、国立の旅館などに、いわゆる「日産学校」が開設され、各個撃滅の体制がとられた。ことに特筆されるのは、両親説得工作である。係長たちが若い従業員の自宅を訪問、日産側に合流しないと失業するといった恫喝まがいの説得工作が行われたのだ。
 その結果、プリンス労組は、次々と落城していったのである。しかも、塩路一郎は、プリンス労組執行部をほとんど相手にせず、矛先を下部の中央委員、代議員に向け、テープレコーダー、スライドなど、当時、最先端であった文明の利器を使い説得した。そして1965年12月22日、ついにプリンス労組の執行部不信任案が可決され、プリンス労組は、事実上、執行部支持の第1組合と、塩路支持の第2組合に分裂したのであった。
 こうなれば、もはや勝敗は決まったも同然である。明けて1966年4月2日、プリンス労組は、全国金属脱退にたいする賛成、反対を問う全員投票を行った。投票の結果は、賛成6,575票、反対594票で、文字どおり、圧倒的多数で脱退が可決されたのだった。そして、つづく15日には、全国金属を脱退したプリンス労組が、日産労組をはじめ、関係各方面に挨拶状を送付した。旧執行部支持派からみれば、完全に第1労組を裏切った第2組合であるが、数的に主客転倒された以上、問題にされなくなった。当時、プリンス労組が所属していた総評は400万人の大組織を誇る社会党の牙城であり、太田薫、岩井章の武闘派コンビが謳歌していた。これにたいし塩路の自動車労連は、わずか11万人の所帯。しかし日産に関する限り、総評は烏合の衆でしかなく、完敗したのだった。
 同年4月20日には、日産・プリンス両社が合併契約書に正式調印した。そして10日後に到来した5月1日のメーデーには、新結成されたプリンス自工労組が、日産労組に歩調を合わせてメーデー参加を中止、家庭で家族と祝った。このようにして日産・プリンスの合併は、会社同士はもちろん、組合同士も、日産労組と第2労組ながら圧倒的多数を擁するプリンス自工労組とが合併した。1966年10月14日である。
 まさに勝てば官軍、負ければ賊軍で、総評系全国金属を背景としたプリンス労組も、結局、占領軍である日産労組に説得され、大多数の組合員がその支配下に移った。もはや全国金属系を守る者は数える程しか残存せず、会社側にいわせると、「100名ほどしか残っていない」のだった。しかし、「右寄り」の日産労組との統一をいさぎよしとしない旧執行部の連中は、全国金属のカンパで生活、必死に抗議、宣伝活動を続けていた。川又社長が1949年〜1953年までの歴史的な大争議を終結して以来、業界でもまれに見る「御用組合」だった日産労組は、「ものの数ではない」とはいえ、新たな問題を抱え込んだのだった。現に職場では御用組合員による暴行傷害事件が発生していた。

この項つづく。