2013-04-01から1ヶ月間の記事一覧
四輪驅動車の御意見番である石川さんに誘はれて、入間市にある舊石川組製絲西洋館を見學した。 石川組製絲とは、石川幾太郎が明治26年(1893)に創始した製絲會社である。當初はわづか20釜の坐繰製絲(手工業)でスタートしたが、明治27年にはいち早く蒸氣力…
http://www.jmiu-nissan.com/history.html 日産とプリンスの合併が発表されると、日産労組はデマゴギーに打って出た。 「日産側労組は、プリンスが日産に吸収合併されたのだから、そのうちプリンスの製品はなくなるといった悪質なデマを流し、まず血祭りとし…
RSCC今年度第2回目のレース。またもや優勝はSさん! 賞品のポーシェをかっさらっておりましたよ。自分はと言えば、言わぬが花でございます(T_T)
塩路の主導する日産労組のプリンス労組に対する攻撃は、熾烈を極めた。プリンスの本拠であった立川、吉祥寺、武蔵境、国立の旅館などに、いわゆる「日産学校」が開設され、各個撃滅の体制がとられた。ことに特筆されるのは、両親説得工作である。係長たちが…
塩路のプリンス労組攻略は、「えげつない」手法がとられた。プリンス労組の永井委員長に対する露骨な誘惑である。 塩路は、 「日産労組とプリンス労組が円滑に統一された場合、2〜3ヶ月間アメリカにでも、希望するならソ連にでも出かけたらどうか」 と永井…
1965年7月7日、塩路一郎がジュネーブでのILO(国際労働機関)総会から帰国した頃から、「自動車労連が同盟を脱退し、総評傘下の全国金属に加盟するのも一つの方法だと思う」と対決姿勢をあらわにしていたプリンス労組はしだいに腰砕けとなってしまうのだ…
第2組合委員長3代目の塩路の時代になって、日産の組合は、一段と強固なものになったのは事実だ。塩路は「天皇」と影で言われる存在となった。塩路は日本油脂労組のときから、労組幹部がデマの流布に狂奔していると見るや、直談判して、堂々と反対意見を述…