日産とプリンス合併の労組問題。。。Part14 総崩れとなった全金プリンス労組


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 日産とプリンスの合併が発表されると、日産労組はデマゴギーに打って出た。
「日産側労組は、プリンスが日産に吸収合併されたのだから、そのうちプリンスの製品はなくなるといった悪質なデマを流し、まず血祭りとしてプリンス車の売れ行きを激減させた」
と全金プリンス労組は主張する。そして合併発表まもなく、日産労組による全金プリンス支部への全金脱退工作が、組合機関をつうじて執拗に展開された。そこでプリンス労組は1965年10月21日の定期大会で、全金の組織を守り、プリンス労働者の利益と権利のために闘う方針を満場一致で決定した。
 ところが、この大会の席上、自動車労連会長の塩路一郎が、祝辞に名を借りて、
「全国金属とプリンス支部の中央執行委員の方針をつらぬく限り、プリンス労組は潰れるだけである。全金の方針に反対の者は、我々とともに立ち上がろう」といった主旨の演説をした。これは会場の組合員に動揺を与え、職制と職場の上司が「反全金」の活動を」積極的に開始しする。これは会社側の支持を受け、就業時間内でもオルグが公然と行われ、職場内は全金側によれば無政府状態になったというのだ。
 1966年4月、日産支持派がプリンス支部機関を暴力で占領、組合員を日産側と全金派に選別、全金派の役員を社外に追い出し、
反日産の立場に立つ者は、こういう運命になる」
と暗示したのだった。全金側の記録によれば、「全金を裏切った5名の執行部は職場に復帰させ、逆に全金支持者にたいする攻撃と、集団による吊るし上げはいっそう強まった」というのである。さらに、それは後述する暴行障害事件にまでエスカレート、告訴騒ぎにまでなったのだった。

 しかし、この問題に対しては、日産自動車幹部はもちろん、問題の塩路委員長まで、負け犬の遠吠えといった程度にしか受け取らなかった。既に戦いは決着し、日産占領軍の圧勝で終わったと見ていたからである。

この項つづく。