日産とプリンス合併の労組問題。。。Part9 醜態を晒した宮家愈の職場復帰

 1961年3月、委員長である宮家愈の職場復帰が課題となっていた頃、塩路は宮家に突然呼び出された。
「俺の後をたのむ。君の才覚、勇気と行動力を見込んでのことだ」
と宮家に頼まれた塩路は、委員長の座を譲り受ける事とした。
 宮家はスタッフとして常任および職場から優秀な若手10人を選び、特別に業務部の部屋が与えられて、肩書きは業務部長、クルマと運転手付きという扱いとなった。
 宮家は以前から川又社長に「職場復帰のときは役員にして欲しい」という話をしていたらしいが、自動車労連会長時の影響力があまりにも大きく、おいそれと返事をするわけにはいかなかったようだ。塩路が気をもんでいると、副会長の3人が「こうなったらラインを止めて交渉しろ」と言い出す始末だった。塩路は石原経理部長が、宮家業務部長に嫌がらせしているのではと睨んでいたが、川又と石原の関係がどうなっているかは解らなかった。
塩路は「日産労組組合長としてラインストップは認めない」と主張、日を改めて審議することとなった。
 数日後、神楽坂の喜文という料亭に、労連から呼ばれた塩路は、「ラインストップは中止となったから皆で飲んでくれ」と言われ飲み始めたのだが、気がつくと酔いつぶれて翌朝になっていた。横浜工場の組合事務所に午前9時に着いたのだが、既にラインは組合員により止められていた。塩路は宮家に自分の待遇の件で川又と交渉しろと指示され、会うことにした。しかし、宮家を満足させる回答は得られなかった。
 翌日の5月17日の常務会と18日の役員会で日産は、「宮家に副参事の資格を付与する」ことを決めた。組合を出た人間に対し、会社側としては大幅に譲歩した理不尽な対応を取ったのだった。しかもライン停止という恐喝まがいのことを指示した男にである。宮家と会社側は「何もなかったという理解に立つ」ということを確認した。日産の社史からは、宮家によるライン停止事件も抹消されることとなったのだった。
 その後、塩路と宮家の残党たちによる権力闘争は熾烈なものとなったようだ。1962年9月24〜25日に開催された自動車労連の定期大会にて塩路は正式に会長に選出された。宮家の肝いりで、副会長には宮家の残党が残されることとなる。
 その年の10月中旬、塩路は宮家に呼び出される。
「来年春の中間改選で増田を組合長にしろ。俺に背いて、労連の会長はおろか、日産に居られると思うのか」
と塩路は宮家に恫喝された。
 組合から退いた人間が組合の運営に口を出し、現役が黙ってそれに従うという、異様な状況が日産労組に渦巻いていた。宮家は副会長らを使って裏工作を続けていた。それからというもの、塩路には副会長らの監視の目がついてまわり、組合常任とは常任会以外では話すこともできない状態が続いた。1963年の2月頃には、孤立化した塩路に対し、小牧人事部長から「非公式に会いたい」との電話があり、塩路は国電五反田駅近くの喫茶店で会うと、封筒に包んだ分厚い包を差し出された。川又社長からだった。塩路が受け取ったかどうかは不明であるが。。。
 宮家とその側近たちは、常任たちを呼び出して反塩路の約束を誓うこととなる。組合の常任のほとんどは宮家の側につくこととなった。それに対し少数の塩路らがどのような活動をしたのかは定かではない。何れにしても1963年8月30日の日産労組創立10周年記念総会にて、来賓である川又社長の挨拶「労使関係の安定と協力が日産の10年の発展を支えてきた」という言葉を、宮家は塩路への支持と理解し、西武グループの西欧自動車の社長として転出することとなった。川又を巡っての石原と宮家の権力闘争は宮家の敗北で終焉したと塩路は考えるのだった。塩路はある意味、漁夫の利を取ったとも解釈できるのも事実である。

この項つづく。