日産とプリンス合併の労組問題。。。Part8 日産に入社した塩路
1953(昭和28)年4月、塩路一郎は日産自動車に入社した。日産を選んだ理由は、「月給の高い会社」ということだった。当時の日産はトヨタを抜いており、国産車最大のメーカーであった。日産労組は敗戦翌年の1946年に結成されたが、年ごとに勢力を増し、賃上げ、残業拒否の闘争を展開。特に1950年には朝鮮戦争が勃発、あらたに特需景気が起こると、会社の業績もあがったが、組合の要求も強くなった。1950〜1952年まで毎年、春と秋の年2回の賃上げ、夏と冬のボーナス闘争が執拗に繰り返されていた。つまり年間を通して2ヶ月前後は賃金闘争に費やされていたのだった。
このような時代に、塩路は入社したのだった。まさに日産は、給料の良い一流会社であった。ただ、当時、明治大学から日産に入社した先例は、ほとんどなかった。他の一流企業同様に学閥主義が支配していたからだ。そこで塩路はわざと明治の学生服を着て人事部長の猪股良治(後の日産ディーゼル副社長)に直接面会した。
そして初対面の人事部長にたいし、
「受験だけは差別待遇をせずに、平等に取り扱ってもらいたい」
と3日間にわたり、頑強に食い下がって、ようやく受験に漕ぎつけたのだった。この時、塩路は日本油脂を辞め、失業手当で食いつないでいた。彼としては背水の陣であった。結局、私学の夜間部出身で、学歴には不満があるが、学校の成績も悪くないということで採用となった。
塩路は、
「あのとき、猪股さんがいなかったら、自分は日産に入社できなかった」
と述懐している。採用の結果、塩路は横浜工場の経理課に配属された。
おそらく彼が採用されたのは、日本油脂時代に「資本家のイヌ」とレッテルを貼られたことが幸いしたのだと推測される。当時、日産経営幹部がなにより危惧したのは、共産党員であり、組合活動者であった。塩路を採用するにあたって、当然、その前歴は調査されたはずである。特に夜学の苦学生は、普通科の学生に比較して、家庭、思想、素行などで、採用する側は、そうとう神経質になっていたはずだ。日産自動車と日本油脂は、旧日産コンツェルン会社ということで、塩路の日本油脂時代の素行調査は、積極的に計らってもらえたはずだ。「資本家のイヌ」と共産党員に避難されていた過去が、組合活動に悩む人事部長の関心をひいたのであろう。
果たせるかな、塩路は日産に入社してわずか1ヶ月後に、総評自動車日産支部の組合活動が、かつての日本油脂よりも、多数の共産党員で占められていることを知った。
そこで塩路は組合幹部を訪ね、
「デマで、われわれ善良な従業員を迷わすな」
と直談判した。当時、彼は苦学して夜学を卒業した以上、いつまでも下っ端ではなく、係長、課長、部長と、将来の重役を夢見ていた。それだけに、賃上げ、ボーナス闘争以外に目的を持たない組合運動に不満が持たれた。しかし、日本油脂と違い、同じ労組でも、総評自動車日産支部のスケールは大きかった。入社1ヶ月の新入社員の反抗を、表立って取り上げることはしなかった。
しかし、組合大会の時、塩路が顔を出すと、どこからか、
「この中に、日経連*1の回し者がいる」
といった声がでた。
塩路は立ち上がった。
「まわし者とは何だ」
と激しく言い争ったのである。この件で、塩路は入社早々に、組合幹部はもちろん、一般社員にも顔を覚えられることとなった。
1953年夏、日産は4ヶ月にもわたる歴史的な労働争議を体験した。そして、この争議の過程で、第2組合ができ、結局、この第2組合の勢力増大で、第1組合が敗北、大争議も終焉を迎えることとなる。第2組合は、1953年8月30日に、正式に結成されたが、このとき塩路は組合内の会計部長という役職に就いた。第2組合とはいえ、組合委員の大半は塩路の先輩となり、組合幹部は大先輩である。それにもかかわらず、塩路が一躍会計部長として組合幹部に抜擢されたのは、それだけ、塩路の活動が積極的であり、第2組合幹部、後に委員長となる宮家愈から注目され評価されたからだった。特に日本油脂の労組時代に塩路が築いていた、海員組合の和田春男とのコネクションは大きかった。第2組合活動の資金源となったからである。
御用組合と総評から批判された第2組合であったが、積極的に労働者自らが経営に参加する「経営協議会制度」を会社側に提案した。賃金闘争だけではない、経営の民主化にも貢献していた。塩路はそこで若手の座長となっていた。1955年1月23日には、販売や部品製造も合流した自動車労連を結成、地方の販売会社も次々とオルグし、労組を結成していった。もちろん労組が結成されていない関連企業が多かったから、オルグには苦労が多かったようだ。塩路はそれで全国行脚をし、多くの経験をしたようだ。
1961年3月、塩路は日産労組の委員長に選ばれた。
この項つづく。