2013-03-01から1ヶ月間の記事一覧
故Y氏の御遺族から許可を頂き、貴重な第3回日本GP観戦時の写真をここに掲載する。 Porsche 906ミツワでの内覧会だろうか? 左端がY氏、その隣が滝進太郎。 航空運賃込の車両価格は当時1,076万円。いまの貨幣価値で1億円というところだろう。 スタート…
1961年3月、委員長である宮家愈の職場復帰が課題となっていた頃、塩路は宮家に突然呼び出された。 「俺の後をたのむ。君の才覚、勇気と行動力を見込んでのことだ」 と宮家に頼まれた塩路は、委員長の座を譲り受ける事とした。 宮家はスタッフとして常任およ…
1953(昭和28)年4月、塩路一郎は日産自動車に入社した。日産を選んだ理由は、「月給の高い会社」ということだった。当時の日産はトヨタを抜いており、国産車最大のメーカーであった。日産労組は敗戦翌年の1946年に結成されたが、年ごとに勢力を増し、賃上げ…
日本版オクタン創刊号。中身を見ましたが、かなり写真がきれいで質の良い雑誌です。 今月26日に店頭に並ぶようですが、既存の自動車雑誌業界に新風を吹き込んで欲しいものですね。
塩路一郎は、ある意味、社長の川又よりも日産では輝かしい存在であった。彼は労働争議で悪戦苦闘した日産の労働組合を一本化して、強力な統率のもとに、労使協調を実現化した最大の功労者であったからだ。塩路が自動車労連の会長として、豪華な自動車労連ビ…
日本ではクライスラーのブランドで販売されるランチア・イプシロンを1週間借りることができた。日本では英国同様にクライスラー・ブランドで販売される。泡沫経済の末期、マツダとの提携が失敗に終わってから、ランチアは日本では正規輸入されていないからだ…
1966(昭和42)年5月26日、大蔵省から、利益の多い大企業の利益処分に関連、いわゆる「逆粉飾」にたいして警告が発せられた。逆粉飾とは、出すべき利益を表面に出さず、諸引当金の形で内部留保することである。この内部留保にさいしては適正な税法上の措置を…
スーパーバードのシェイクダウンは終了。やはりハイウィングは重心が高くて難しい。モグラ親父さんによって、ガタだしも行ってもらった。あとはフロントタイアを1mm削ってガイドが抜けにくくすることと、モーターをヘリテージのものにデチューンする必要が…
川又が、労組に対し信頼をおいていたのには、大争議以外にも理由がある。1955年に起きた、幻のクーデターだ。もちろん、日産の社史からは抹殺された事件だ。 大争議での疲弊と、その直後の不況を克服した日産。ようやく経営に見通しがついてきた1955年の春。…
今年の2月1日、自動車労連元会長の塩路一郎が死んだ。86歳であった。 彼は、日産・プリンス合併の頃、肩幅が広くガッチリとした体型が頼もしい男だった。そして、その奥に潜む闘志は相当なもので、労組委員長としてこの男を敵に回したら、へたな経営者はあ…
川又克二が日産社長の椅子に座ることとなった決定打は、歴史的な日産大争議の解決者だったことだ。川又は日産に乗り込むや、 「会社再建のためには人的整理の蛮勇をふるう以外に道はない」 と決意、組合と全面衝突となった。1949(昭和24)年9月のことである…
日産の川又社長が、労務対策に関して大いに自信があったのには理由がある。川又は、1947年7月に、興銀の広島支店長から、日産自動車の常務として送り込まれ、赴任早々、日産の歴史的なストライキに直面、否応なくその対策に乗り出さねばならなかったからだ…
異なる会社が合併しても、同じ経営者であり、株主であり、労働者であるから、その根本の理念、利害関係は、経営者同士、共通しており、同様のことが、株主、労働者にもいえるはずだ。特に労働者は、その共通点が濃厚であり、決定的であるように思われる。古…
1926年(大正15年)12月25日、高柳健次郎(後の日本ビクター副社長)が濱松高工にてブラウン管による電送・受像を世界で初めて成功した。此れは、其のテレビ傳送實驗裝置の再現展示。映し出されたのは「イ」の文字だつた。 ヒトラーの伯林オリンピックで世界初…
23區内に有る貴重な山、愛宕山。標高が25.69m。まあ、山と云つても丘ですがね。 トンネル手前左脇の裏參道を登つていくと、、、 NHK放送博物館がある。1956年に、世界最初の放送專門のミュージアムとして、“放送の故郷”であるところの愛宕山に開館したらしい…
4月20日土曜日に開催されるNASCAR(1967〜1971)レースの練習。写真を撮ってないが、自分はカレラのプリマス・スーパーバードのペティー仕様で参加することにした。 NASCARは大柄なボディによりサイドバイサイドの接触事故でレースそのものが実車同様に荒れる…