日産とプリンス合併の労組問題。。。Part2 川又が日産社長となった背景

 日産の川又社長が、労務対策に関して大いに自信があったのには理由がある。川又は、1947年7月に、興銀の広島支店長から、日産自動車の常務として送り込まれ、赴任早々、日産の歴史的なストライキに直面、否応なくその対策に乗り出さねばならなかったからだ。
 1947年7月といえば、まさに敗戦後2年目の混乱期である。当時、日産自動車は日産重工業と称していたが、現在と比べれば、その地位は問題にならないほど小さかった。川又自身も、広島支店で興銀本店から日産入りの電話による辞令を受けたとき、日産重工業とはどんな会社か、すぐには思い出せなかったほどだ。
帰宅後、婦人に、
「たしか、クルマを造っていた会社だよ。昔、鮎川義介さんが、やっていた会社で、ダットサンを造っていたそうだ。いまでも、そういうものを造っているんだろう」
と答えている。
 その日産常務に就任したが、前歴に照らし合わせ、担当は経理となった。当時の日産は、経理担当の役員が欠けていた。それもそのはず、戦時中は親会社の日本産業から、万事支持を仰ぎ、直接指揮する必要がなかったのだ。
 ところが、川又が初めて出社すると、会社側は、労組と賃金交渉の最中であった。川又は否応なく、その席上に出された。社長の箕浦多一は、いわゆる2代目であるが、財閥解体による首脳部の追放で、取締役総務部長から、一躍社長に抜擢されたばかりで経験がなく、経営の才能も疑問が多い人物であった。これに対し川又は、箕浦に比較して、風采からして貫禄があり、社長のように見えた。しかも、天下の興銀から送り込まれたのだった。それで、翌日から組合幹部は、社長を無視して、新任の経理担当常務と交渉するようになったのである。
 争議は拡大した。しかし社長の箕浦は、問題局面収拾の能力に欠いていた。そこで川又は、箕浦に対し、重役の改造、充実の人事を進言、結局川又が専務となり、実権を掌握したのだった。箕浦は、川又から重役の改造人事を進言されるや、直ちに辞意を漏らすぐらいに臆病な男であったから、1949年9月、会社側が1760人のリストラを発表、組合側の行動が一段と先鋭化してきたと知るや、高血圧で倒れてしまった。それで川又が社長代理となり、事実上の総指揮官として、陣頭指揮にあたったのだ。