日産とプリンス 合併の裏で。。。Part12 外山副社長の悲哀

 人事の差別はしない、と明言した日産川又社長であるが、実際は明確な人事差別が行われたのは事実である。

 その悲劇を象徴するのが外山保だ。
 外山は1909(明治42)年4月生まれ。1930(昭和5)年、東京高等工芸(現千葉大学工学部)の精密機械科を卒業、プリンス自工の前身である立川飛行機に入社。技師、工場長から、終戦時まで軍用試作機の開発に専念した。終戦後、自動車生産への企業転換計画を立案、自動車工場長となり、プリンス・セダンを完成。そして同社の誇る元航空機技術員を代表、プリンス自工の取締役とプリンス自販の副社長を兼ねていた。それがこの合併で、プリンス自販は日産プリンス自販と改称され、社長は日産自動車常務の朔春洋が兼任することとなり、外山は専務に降格とされたのであった。
 外山は合併前までは、プリンス自販を代表して、日産の川又、岩越、五十嵐らの正・副社長とは、ときに対等の立場をとっていた。プリンス自販の社長は、プリンス自工社長の小川秀彦が兼任していたが、小川は所詮、メインバンクの住友銀行から送り込まれてきた人間であり、事実上は副社長の外山が万事任されていたのだ。
 一方の朔は、川又と同様、興銀の福岡支店長から日産に送り込まれ、1959年5月に、日産の常務となった。1911(明治44)年4月生まれ。従って外山より2歳若い。
 とにかく、学校を出ると飛行機から自動車へと、技術者として叩き上げの外山とは、朔は全く異なる人生を歩んできた男のようだ。それに、合併前は、副社長に対し常務である。日産とプリンスは資本金をはじめ格付けは違っていたから、プリンス自販の副社長とはいえ、外山もそう威張っていたわけではない。しかし、釈然としないのも事実であった。
 朔は週に1度だけ、日産プリンス自販の社長として出社する。目を悪くしているためサングラスをかけて出社する。外山の顔には、合併当初、朔と顔を合わせた瞬間、敗北の屈辱がひしひしと感じられていただろう。
 日産としては、プリンス自工を合併したが、それに付帯したプリンス自販が、予想以上に経営内容が悪かったので、直接の責任者である外山を格下げ、朔による再出発を企図したわけだ。しかし、当の外山保にとっては、これは無慈悲な格下げであり、露骨な征服者心理の現れと解釈されていたようだ。
 外山の悲劇を物語る挿話として、伝えられていることがある。外山の長男*1は、慶応の商学部を卒業、プリンス自工に勤務していたから、この合併で、日産勤務となった。ところが次男は、慶応の工学部を卒業したが日産には入社せず、小松製作所を選ばせた。次男は子供の頃から自動車が好きで、第一志望が自動車メーカーであったが、外山はあえて、別の会社に進ませた。現に己の味わっている悲哀を考えてのことであろう。そんなところから、この子供たちは、新車を買う場合、意識的に、日産車を選ばないといった取沙汰まで、週刊誌などは伝えている。

*1:2009年に日産の子会社の常務として69歳で亡くなっている。