日産とプリンス 合併の裏で。。。Part17 突然、大衆車サニーを売れと言われても

 旧プリンスの販売店には、大株主である石橋正二郎にたいする憧れもあり、同時に御料車とエンジン技術に一種の郷愁的な感情があった。それでプリンス系販売店会議で、車名変更に関する販売店オーナーの抗議に同調する空気が生まれたのであった。
 日産プリンス自販専務の外山保は、旧プリンスの実質的な指導者であった。合併により日産の末席取締役に格下げされたが、この抗議をなだめるために奔走した。
外山は、
「主要な代理店からアンケートを求めた結果、販売政策上、プリンスを削った」
と説明した。
 しかし、その程度の説明で、旧プリンス系の販売店オーナーを納得させることはできなかった。旧プリンス系の連中から、日産方式の押しつけに不平不満がぶちまけられ、そればかりか、サニーとの併売店の成績が軒並み不振なことは、日産の販売政策の誤りだと言い出される始末だった。
 当時のマスコミが日産・プリンスを称して、NP合併と報道していたが、その時、プリンス系の某役員は、
「販売しやすい大衆車を併売するとなると、逆にプリンス車が売れなくなる。日産車とプリンス車は、あくまで別のチャンネルにすべきだ」
と日産の販売政策に反対を唱えたものがいたが、川又社長に面と向かっては言えなかった。所詮ははかない抵抗だったのだ。
 プリンス系の販売店では、日産サニーの販売が行われたが、トヨタカローラ店よりもディーラー網が多いにもかかわらず、好成績をあげられない事実を現実に体験した。まさにプリンスの元役員の言葉通りであった。このことに関連して、旧プリンス系ディーラーのオーナーたちは、
やっぱりプリンスの役員たちは、腰抜けだった
と酷評するのだった。
 ディーラーとすれば、1車種を扱うよりも、多車種の方が有利だ。しかし、それには人的、資金的な補強と支援が先決である。それなのに、日産からの配慮はなく、一方的にサニーの併売を強行させた日産首脳部には恨みが募る。だが、それ以上に、この不合理に対し、あえて文句も言わず、プリンスの車名消滅にもあまり抵抗せず、盲従することにした旧プリンス出身役員の、不甲斐なさに憤慨したのだった。
 そこで、都内では、1967年5月、日産プリンス五反田販売と、日産プリンス中央販売の両店が、これまで併売していたサニーを、別会社の日産サニー城南販売を新設することで、問題のサニー併売を廃止した。現実にマイナス面が多いことが明らかになったからである。
そこでいままでのサニー併売から解放されたセールスマンは、
「ようやくプリンス車一本の販売に戻れた。どうもサニーを売っていても、ちっとも愛情がわkなかった。日産のネームバリューで、確かに売りやすいクルマだったが、なんとなく売りたくなかった」
と語っている。旧プリンス系セールスの本音であろう。

この項つづく。