日産とプリンス 合併の裏で。。。Part16  石橋に相談もなく決められた車名変更

 グロリアからプリンスの4文字を削除した車名変更問題に関して、石橋相談役には一切、話がなかったと言われている。川又社長は、当時の経済評論家に対し、
「発表の直前に、石橋さんに報告、了解してもらった。だから、ぜんぜん相談しなかったわけではない」
と語っている。
 いずれにせよ、合併に際し石橋が名誉にかけても残してもらいたいと懇願し、見方によれば合併の最重要条件としたプリンスのブランド名を残すことは、もろくも無視されたのだった。
 これに対し日産川又社長は、
「確かに合併条件として、プリンスの車名を残すとは言った。しかしそれには、プリンス・グロリアという名称のうち、社名のプリンスではなく、車名のグロリアという意味もある。だから、グロリアという車名を残したではないか」
と苦しい言い訳をしている。
 一方、旧プリンス自動車の専務であり、合併後の日産自動車常務として生き残った中川良一は、旧プリンス系技術者の総帥とも称される男だが、
「プリンスの社名が消えたことに、そんなにこだわることはない。ニッサン・グロリアで結構ではないか」
と、表面上、事も無げに語っているのだった。
 旧プリンス内部からの援護射撃もあり、川又は「誰も文句を言っていない」と開き直るような発言をして平然といられたのである。
 ところが、新グロリア発表の4日前、1967年4月8日、東京・札の辻(現港区田町駅前)の日産プリンス自販で行われた全国プリンス系販売店会議の席上、真っ先に出たのは、車名変更問題であった。
発言者は地方販売店オーナーであったが、
「なぜ、いきなりニッサン・グロリアにしたのか、納得いかない」
といきり立っていた。だから、川又の言うように、車名変更は販売店の要望ではなかったのである。
 確かに、ニッサン・プリンス・グロリアでは車名は長すぎる。それをニッサン・グロリアと改名したのは当然のことと、当時は伝えられた。ただ問題は、合併の際に、車名のプリンスはできるだけ尊重すると約束しておきながら、合併早々に、早くもそれを踏みにじったことだ。しかも、それをあたかもプリンス側の要望であるかのごとく説明する傲慢さである。旧プリンスの重役で、日産に編入させてもらった連中は、社長の川又や、副社長の岩越には、ほとんど抵抗できなかったようだ。それを旧プリンス役員、従業員、ましてや、販売店の意向であると錯覚してはならない。

この項つづく。