日産とプリンス 合併の裏で。。。Part10 合併の秘密を守り抜いた秘策

 日産とプリンスの合併問題は、両社の幹部でも、現実に調印、発表されるまで、外部にはもちろんのこと、内部にも秘密が漏れることはなかった。当時、外国メーカー参入の自由化問題を控えて、経済担当の新聞記者はネタ探しに駆け回っていた。もし、この秘密が漏れたら、日産側は別として、被合併側に立つプリンスの役員、従業員の動揺は大きく、この面からも一波乱が起こる不安があった。そして、この大合併そのものが、お流れになってしまう懸念すらあったからである。

 この合併劇に登場した人物は、全部で14人。

通産省 :桜内義雄 大臣、佐橋滋 次官、川出千速 重工業局長
日産  :川又克二 社長、岩越忠恕 副社長 五十嵐正 副社長
プリンス:石橋正二郎 会長、小川秀彦 社長、木下俊夫 石橋財団理事長、成毛収一 ブリヂストンタイヤ常務
興銀  :中山素平 頭取、梶浦英夫 常務
住友銀行:堀田庄三 頭取、高橋吉隆 専務

 このうち、主役は桜内大臣であり、準主役が石橋会長であった。

 問題が問題だけに、桜内は慎重に構えた。しかし、幸いなことに、2人とも自宅が麻生で接近していたため、日曜日に、桜内がこっそり石橋邸を訪れても、新聞記者たちにはわからなかった。仕事上、夜が遅い記者連中ではあるが、日曜日には目が届かなかった。経済活動が停止されているからである。それだけに2人にとっては、絶好の機会でもあった。桜内はそれを狙ったのだ。
 石橋と川又は、合併が本決まりになるまで、直接、2人でサシで会談はしなかった。日産側からは興銀常務の梶浦英夫、プリンス側からは、住友銀行専務の高橋吉隆が、双方の交渉役として選ばれた。そして3月下旬、新橋の料亭金田中で、桜内、佐橋、石橋、川又の4人が会った。合併に対する両社の賛成意向が桜内の根回しで確認されたからであった。この会談直後、石橋はプリンス社長の小川秀彦、川又は日産副社長の岩越忠恕、五十嵐正に、合併交渉の進捗を報告した。しかし、それ以外の役員は、記者会見の前日、初めて知らされたのである。いかに、この合併劇が秘密を尊重されたか理解できよう*1

 秘密といえば、次のような話がある。合併調印の直前である1965年5月29日の土曜日は雨であった。前記の14人のうち、岩越、五十嵐、木下、成毛の4人を除いた10人が、夜、前記の料亭金田中で会った時である。この顔ぶれが一堂に集まることが、事前に漏れたら大変である。ここまで煮詰まってきた合併だから、それで破談になるとは言えないとしても、所謂横槍が入り、面倒である。
 そこで、まず桜内大臣は、後任の通産大臣三木武夫が決まり、数日後に退陣となっていたので、この日の夕方から、東京・永田町の南甫園で、通産省記者クラブの新聞記者とサヨナラ・パーティーをしていたが、中途で私用にかこつけて会場を出た。一方、佐橋次官は、午後からゴルフに出かけたが、途中、雨に降られて、びしょ濡れになって通産省に帰った。そして着替えている時に、仕事熱心な記者に捕まったが、この時、少しも動揺せず、
「たまには女房孝行でもするか」
と、つぶやき外に出た。重工業局長の川出千速も、そしらぬ顔で外に出た。3人は秘書をはじめ、周囲の部下、関係者を、全部あざむいた。さながら、四十七士討ち入りの前夜を思わせる光景だったと言われている。

この項つづく。

*1:あるプリンスのモータースポーツ部門関係者は、会社からアパートに帰ってくると、近所のオバサンに「あんたの会社、日産と合併すると新聞に出てるわよ」と言われて、合併の事実を知ったと話している。