日産とプリンス 合併の裏で。。。Part9 顔面蒼白の役員たち

 日産とプリンス合併の推進者であり、世間から持ち株をうまく売り抜いたと評されていたブリジストン石橋正二郎も、プリンスを手放すことには相当に悩んだようだ。
 石橋は当時の心境を、つぎのように語っている。
「プリンスの経営をやって10年以上を経過、自分の子供と同じ気持ちである。それをいくら国家的見地に立って大義名分があっても、簡単に諦め切れるものではない。自分だけ立場が変わるだけならかまわないが、プリンスに命を賭けた者が、プリンス自工だけで約7千人、そして、ほぼ同数のセールスマンがプリンス自販にいる。それで、合併するにしても、これらの人々が、むしろ有利である条件ならばと思い、対等の精神でまとまるように努力した。同時に悩んだのは役員の人事であるが。。。」
 この限りにおいて、彼の苦悩も嘘ではないようである。。。

 日産、プリンスの合併に伴う調印式は、1965年5月31日午後3時、東京・大手町のパレスホテルで行われたが、この調印式の前日、30日の日曜日、プリンス自動車の常務以上が、東京・麻生永坂町*1の石橋邸に呼ばれたのであった。日産との合併問題は、社長の小川秀彦以外には、誰にも伝えていなかったからである。
 突如の会議は、昼前から行われた。石橋は、
「諸君には相談しなかったが、通産大臣の勧奨もあり、このたび、日産自動車と合併することにした」
と語り、しかも明日、正式に調印の運びに至ることを報告した。
 そして最後に、
「大きなところと一緒になって、大きな仕事をしてくれ」
と結んだ。
 なんでも石橋の口から日産と合併すると発表された瞬間、常務たちは、いずれも顔面蒼白、ただちに口を開く者はなかったといわれている。
 会議は午前から午後、さらに夜になった。いかに天下の石橋天皇の前とはいえ、問うべきことは、問わなければならない。自分たちの死活の問題であるからだ。
 その時、明らかにされたのは、合併は遅くとも1966年末までに行われること、合併比率は現状で判断すれば1対2、合併に関する細目は両社代表の合併委員会が取り決め、プリンスの車種は、合併後も継承、永久に残し、合併会社においてもプリンス車種の発展をはかる、合併後は両社の融和をはかり、従業員の差別は行わず、合併後、小川プリンス自工社長は副社長となり、石橋会長は合併後の日産の会長を望まれたが自分の意思で相談役になる、といったことであった。
 所詮サラリーマン重役である。石橋から合併までの経緯、ことに合併条件などを説明され、これなら致し方なかろうと、結局、全常務連中から、1人の反対者も出なかった。ちなみに日産側でも、プリンスより1日早い29日、川又の口から、常務以上に報告され、説明に時間を要したが、結局、1人の反対者もなかったということである。

*1:港区内で唯一の住居表示未実施地域。石橋正二郎が住居表示の実施に対して強固に異を唱えていた。