2013-02-01から1ヶ月間の記事一覧

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part17 突然、大衆車サニーを売れと言われても

旧プリンスの販売店には、大株主である石橋正二郎にたいする憧れもあり、同時に御料車とエンジン技術に一種の郷愁的な感情があった。それでプリンス系販売店会議で、車名変更に関する販売店オーナーの抗議に同調する空気が生まれたのであった。 日産プリンス…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part16  石橋に相談もなく決められた車名変更

グロリアからプリンスの4文字を削除した車名変更問題に関して、石橋相談役には一切、話がなかったと言われている。川又社長は、当時の経済評論家に対し、 「発表の直前に、石橋さんに報告、了解してもらった。だから、ぜんぜん相談しなかったわけではない」…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part15 哀れプリンスの名が消滅へ

1967年4月12日、東京・高輪のプリンスホテルで、日産自動車の新車発表パーティーが開催された。この日、日産グロリア新発売と書かれた赤い垂れ幕が、おりからのスモッグで汚れた東京の空に高く上がった。その鮮やかな色のアドバルーン(最近、見かけませんな)…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part14 トヨタ勝又グループの不都合な過去

合併が地方販売店に与えたショックを示す典型的な事件として、千葉プリンスと埼玉プリンスの例があげられる。この両販売店とも、その経営者は同一人物である。社長の勝又豊次郎は、この地域の自動車ディーラーを当時支配していたし、その息子たちが後継とな…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part13 プリンス販売店の悲喜劇

さて、従業員の場合、被合併当初、心配したのは、合併に伴う解雇である。しかし、おりからの自動車業界の好景気で、労働力が不足傾向にあったので、杞憂に終わった。むしろプリンスから、日産の社員になることで、一種の誇りすら感じたようだ。しかしながら…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part12 外山副社長の悲哀

人事の差別はしない、と明言した日産川又社長であるが、実際は明確な人事差別が行われたのは事実である。 その悲劇を象徴するのが外山保だ。 外山は1909(明治42)年4月生まれ。1930(昭和5)年、東京高等工芸(現千葉大学工学部)の精密機械科を卒業、プリンス…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part11 人事の差別はしないはずだったが。。。

日産とプリンスの合併の際、儀礼的であったかとも思われるが、石橋正二郎は、合併後の日産自動車の会長就任を要望された。しかし断った。その理由として、石橋は次のように語っている。 「私は目立つことが嫌いだ。今後は人事について相談にのる程度で、その…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part10 合併の秘密を守り抜いた秘策

日産とプリンスの合併問題は、両社の幹部でも、現実に調印、発表されるまで、外部にはもちろんのこと、内部にも秘密が漏れることはなかった。当時、外国メーカー参入の自由化問題を控えて、経済担当の新聞記者はネタ探しに駆け回っていた。もし、この秘密が…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part9 顔面蒼白の役員たち

日産とプリンス合併の推進者であり、世間から持ち株をうまく売り抜いたと評されていたブリジストンの石橋正二郎も、プリンスを手放すことには相当に悩んだようだ。 石橋は当時の心境を、つぎのように語っている。 「プリンスの経営をやって10年以上を経過、…

亀有、今年最初のレース、タルガフローリオ

今年、最初のレースは、亀有でのレース、デビュー・ウィンのSキさんのカレラ6。250GTOは、実車同様のフロント・モーターにもかかわらず健闘しました。チーム・Nムラの自分は予想通り予選落ちでした(^^; SCXのMG-A。塗り替えてます。 新メーカーのSRC。スペイ…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part8 異例の合併比率変更

プリンスの経営内容が予想外に悪いことを知った日産の川又社長が、どんなに慌てふためいたかは、合併比率の急遽変更という措置に、端的に現れている。 当初、合併比率は1対2と、それがほとんど決定的のように伝えられた。事実、この種の合併発表に際し、合…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part7 質より量を選んだ川又克二

日産の川又克二社長は、質より量をとった。 川又は、プリンスの話に乗る3年前、軽自動車コニーの愛知機械を引き受け、その経営再建に努力、成功させた経験がある。同じ興銀出身の小田邦美が経営に失敗したのを尻拭いしたのである。その経験による自信も手伝…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part6 プリンス自販の酷い内容を見抜いていたトヨタ

桜内通産大臣は、プリンスの合併先として最初にトヨタを選んだが、断られてしまった。しかし、それで断念せず、日産自動車との合併を画策する。そのターゲットは社長の川又克二自身であった。そこで順序として、桜内はまず、興銀頭取の中山素平を訪ねた。興…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part5 東洋工業との合併話

住友銀行は、プリンスの内容を調査、現状はとにかく、近い将来に貿易の自由化が行われ、資本自由化の黒船が到来したときの状態を研究分析した。その結果は、独立困難というものであった。そこで、合併の数年前、同じ住友銀行系の東洋工業(現マツダ)とプリン…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part4 プリンスの合併に積極的だったメインバンク住友銀行

合併発表当時、プリンス自動車の資本金は120億1,500万円で、総株式2億4,030万株であった。このうち、石橋正二郎の石橋産業の持ち株は4,800万株で、総数の2割を占め、2位の日興証券の1,248万株の4倍近い、圧倒的な大株主であった。その石橋が、合併に積極…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑

日産との合併に関し、プリンス自動車会長である石橋正二郎の心境は複雑なものがあった。プリンスを手放すことは、事実上国家の要請である。しかし自らが育てた企業だけに、資本家・経営者としての執念があった。石橋が九州からはじめて上京した若かりし頃(大…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part2

日産とプリンス合併を主導したのは通産省であった。当時の通産大臣は、自民党の河野一郎*1派を背景とする桜内義雄であり、次官は佐橋滋であった。通産省のスポークスマン的存在であり、「ミスター通産省」と呼ばれていたほどの男だ。城山三郎の『官僚たちの…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part1

昨日書いた富士重工もそうだが、プリンス自動車工業も「技術あって経営なし」の企業であったことは事実だ。モータリゼーションの息吹がこれから本格的に芽生えようとしていた60年代初頭の日本にあって、そのラインナップに小型大衆車が無いというバランスを…

富士重工の悲哀

富士重工は長年、「技術あって経営なし」と言われた企業だった。戦時中は中島飛行機として軍の支配下にあって自由なことはできなかった。戦後は、支配者が興銀*1に変わっただけである。その後は日産と興銀の政争の場と長年されてきた。自動車の事を何も知ら…

Nissan CEDRIC

50年前の日本タクシー業界では、中型車はトヨタ、小型車では日産という住み分けが長い間続いていたが、1960年の3月に、日産がセドリック(アメリカの有名な小説『小公子』の主人公セドリックの名にちなんでつけられた)を発表し、ただちに生産を開始したの…