日産とプリンス 合併の裏で。。。Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑

 日産との合併に関し、プリンス自動車会長である石橋正二郎の心境は複雑なものがあった。プリンスを手放すことは、事実上国家の要請である。しかし自らが育てた企業だけに、資本家・経営者としての執念があった。石橋が九州からはじめて上京した若かりし頃(大正元年)、東京でも自動車は珍しかった。ゴム底の足袋をつくり、ゴムというものを、将来どのように発展させるか考えていた石橋青年は、T型フォードをみると、たちまち魅了された。それで大枚はたいて1台を買い求め、九州の久留米に持ち帰った*1。これが石橋が自動車に目をつけた最初であった。
 ただ、石橋のプリンスに対する経営手腕は、単なるロマンチシズムにすぎなかった。厳しい現実には勝てなかった。石橋は 1949年にプリンスの前身である東京電気自動車の会長に就任、大株主・会長として君臨したが、あくまで本業はブリヂストンタイヤである。輸入自由化の波に直面、世界的な経済競争に突入した自動車会社を、タイヤメーカーが支配する段階ではないと、判断したのであった。
 特に現実の問題として、石橋の心境を支配したのは、横浜ゴムである。現在こそ、タイヤ市場の大半は、ブリヂストンが占め、あらゆる自動車メーカーと取引している。フェラーリやポルシェの純正タイヤにも指定されている世界のブリヂストンである。しかし当時は、競争が激化、巨大化する自動車メーカーに対し、ブリヂストンが子会社としてプリンスという特定の自動車メーカーを持っていると、やがてプリンスのライバルメーカーから取引停止をうけるおそれがあった。
 一方横浜ゴムは、現在こそ、ブリヂストンに大きく水をあけられているが、かつての横浜ゴムは、ブリヂストンなど足元にも及ばない優秀企業であった。1917年にBFグッドリッチとの合弁でできた会社である。グッドリッチの技術を背景に、飛ぶ鳥を落とす勢いで成長した企業である。それが、経営者が政治に足を入れるとか、学閥偏重などといったクダラナイことで、業績が急降下で悪化したのだ。
 それでもグッドリッチは当時、34%の株式を保有する大株主であった。資本自由化が実現すると、「横浜グッドリッチ」と改称され、両者の関係は再び緊密化するおそれがある。それを思うと、天下のブリヂストンでも、うかうかとしていられない。石橋はプリンスを手放すことによって、本来のタイヤメーカーにもどり、くまなく日本中の自動車メーカーと手を結ぶことが、経営者の取るべき道だと知ったのであろう。
 しかし、いかに弱体とはいえ、長年育て上げたプリンスである。従業員にたいする情もからんでいる。それをなぜ敢えて合併に踏み込んだのか、石橋自身は、つぎのように語っている。
「2、3年前から、通産省自動車産業の集約化を提唱して、我々のところにも、重工業局長あたりが、何度も合併談をすすめにきた。しかし、その都度、断った。ところが今度は、桜内通産大臣が突然やってきて、膝詰め談判である。当面は無事だが、自由化が行われたあとの業界は大変で、プリンスは外車攻勢で危ない。だから、このさい大衆的見地に立って、率先して合併を考えてくれと。説得された。歴代の通産大臣で、自ら乗り込んできたことはなかった。それだけに、桜内大臣の国を憂う真情に動かされた」
 正直な告白であろうが、この石橋の心境を、石橋財団の理事長で桜内大臣の義弟である木下俊夫を通じて桜内は知り尽くしていたのだ。合併が表面化したとき、世間の評価は「石橋はプリンスの前途を見切り、石橋家の財産保全のために、あえてプリンスを手放した」と言われていた。結果的には、一番利益を得たのは、石橋正二郎だったのも事実である。

この項つづく。

*1:T型フォードを走らせて足袋の宣伝を行うという、当時としては先進的な広告手法を行った。