日産とプリンス 合併の裏で。。。Part11 人事の差別はしないはずだったが。。。

 日産とプリンスの合併の際、儀礼的であったかとも思われるが、石橋正二郎は、合併後の日産自動車の会長就任を要望された。しかし断った。その理由として、石橋は次のように語っている。
「私は目立つことが嫌いだ。今後は人事について相談にのる程度で、その意味で、相談役を引き受けた」
 石橋の会長就任が、合併の条件ではなかったが、石橋が直接、間接に支配していた約6,000万株余りの持ち株のうち、4,000万株を日産に譲渡してしまった以上、所謂大株主という立場も喪失するし、本来のブリヂストンタイヤに専念したいという気持ちからも、当然のことであろう。
 また、持ち株売却に関して、当初、半分の3,000万株を譲り、残りの3,000万株を石橋家の資産として維持しようと思ったが、会社を譲っても、なお自分が大株主であっては、なにかと日産の川又社長がやりにくかろうと思った、とも語っている。こういう石橋の配慮は、新自由主義者の経営者とは違い、明治生まれの経営者らしいとも言えよう。
 石橋は川又に対し、
プリンス自動車は、昭和29(1954)年に、富士精密と、たま自動車が合併してできた会社です。しかしプリンスのクルマは、合併2年前の昭和27(1952)年に、今日のグロリアの母体となった高級車*1ができたとき、その第1号車を皇太子殿下に御買い上げ頂き、さらに秩父宮常陸宮も使われています。また今年(1965年)になって、天皇陛下国産車をお使いになる御希望をもらされ、宮内庁からプリンスをお勧め頂き、私どもが内命を受けています。そういう由緒あるプリンスという車名は、合併後も、これを継承して永久に残していただきたい。それが私の強いお願いです」
と語った。
 また石橋は、
「合併後の会社は、なにより人と人との融和が大切です。人事の差別はせず、公平な取り扱いに全力を注いでください」
とも語っている。
 年齢、社会的地位から、石橋と川又では比較にならない。しかし、この場合、川又は勝者であり、石橋は敗者である。それだけに一種の懇願とも言えるのであった。
 このとき川又は、
「石橋さん、ご心配無用です。この私を信じ、私に全てを任せてください。けっしてご期待に反するようなことはいたしません」
と答えたと言われている。
 ところが、日産に吸収合併されたプリンスの役員、社員は、多かれ少なかれ被合併会社の辛酸を舐めたのであった。

この項つづく。

*1:プリンス・セダン。当時の小型車規格いっぱいの1.5リッター直4エンジンを搭載していたが、これは日本初のOHVエンジンを搭載していた。「プリンス」というブランドを名乗った最初のモデルであった。