日産

国営昭和記念公園 昭和の時代展から Part 2

1963 NISSAN Blue Bird Type-311 1963 SUBALU 360 CUSTOM 1970 NASSAN LAUREL Hardtop 1970 HONDA 1300 77 1965 Mitsubishi Minica 1968 Prince Skyline 2000GT-A

国営昭和記念公園 昭和の時代展から Part 1

1965 Prince GLORIA 1964 Prince GLORIA Super6 1969 NISSAN Prince GLORIA 1966 Prince Skyline 1500 DX 1966 NISSAN Blue Bird Type411 1970 NISSAN Blue Bird 1600 SSS NISSAN CEDRIC Type30 1969 TOYOTA Publica 1967 MAZDA FAMILIA Coupe

1937 DATSUN Roadster

展示車にはフェートンという説明があったが、フェートンとは20世紀前半のオープン・スタイルの主流であった一形式。折りたたみ式の幌を備えた乗用車で、おもに2列4人乗以上の4ドア幌付オープンカーに対する名称である。2座オープンでランブルシートを備…

1937 DATSUN Type16 Coupe

水冷直列4気筒 SV 722cc 16PS MAX 80km/h1937年型 ダットサン・クーペ。1931年以来ラインナップから消えていたクーペがこの年にモデルチェンジして登場した。2+2クーペのデザインは若き日の富谷龍一さんで、ドアハンドルを埋め込んだり、サイドステップを…

1960 DATSUN Fairlady   Type SPL212

OHV 1189cc 48psダットサン1000をベースにFRPボディを架装したダットサン・スポーツ(S211型)*1の輸出仕様。SPLのLは左ハンドルのこと。 FRPボディは普通の鋼版となったが、フロント・サスペンションは独立懸架に改められた。 デザインは、戦前にオオタ自動車を…

60年代、日本の商用車カタログから

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part14 総崩れとなった全金プリンス労組

http://www.jmiu-nissan.com/history.html 日産とプリンスの合併が発表されると、日産労組はデマゴギーに打って出た。 「日産側労組は、プリンスが日産に吸収合併されたのだから、そのうちプリンスの製品はなくなるといった悪質なデマを流し、まず血祭りとし…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part13 

塩路の主導する日産労組のプリンス労組に対する攻撃は、熾烈を極めた。プリンスの本拠であった立川、吉祥寺、武蔵境、国立の旅館などに、いわゆる「日産学校」が開設され、各個撃滅の体制がとられた。ことに特筆されるのは、両親説得工作である。係長たちが…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part12 プリンス労組への謀略

塩路のプリンス労組攻略は、「えげつない」手法がとられた。プリンス労組の永井委員長に対する露骨な誘惑である。 塩路は、 「日産労組とプリンス労組が円滑に統一された場合、2〜3ヶ月間アメリカにでも、希望するならソ連にでも出かけたらどうか」 と永井…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part11 

1965年7月7日、塩路一郎がジュネーブでのILO(国際労働機関)総会から帰国した頃から、「自動車労連が同盟を脱退し、総評傘下の全国金属に加盟するのも一つの方法だと思う」と対決姿勢をあらわにしていたプリンス労組はしだいに腰砕けとなってしまうのだ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part10 プリンス労組潰しで川又と塩路の「あうんの呼吸」

第2組合委員長3代目の塩路の時代になって、日産の組合は、一段と強固なものになったのは事実だ。塩路は「天皇」と影で言われる存在となった。塩路は日本油脂労組のときから、労組幹部がデマの流布に狂奔していると見るや、直談判して、堂々と反対意見を述…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part9 醜態を晒した宮家愈の職場復帰

1961年3月、委員長である宮家愈の職場復帰が課題となっていた頃、塩路は宮家に突然呼び出された。 「俺の後をたのむ。君の才覚、勇気と行動力を見込んでのことだ」 と宮家に頼まれた塩路は、委員長の座を譲り受ける事とした。 宮家はスタッフとして常任およ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part8 日産に入社した塩路

1953(昭和28)年4月、塩路一郎は日産自動車に入社した。日産を選んだ理由は、「月給の高い会社」ということだった。当時の日産はトヨタを抜いており、国産車最大のメーカーであった。日産労組は敗戦翌年の1946年に結成されたが、年ごとに勢力を増し、賃上げ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part7 日本油脂で味わった共産党への失望

塩路一郎は、ある意味、社長の川又よりも日産では輝かしい存在であった。彼は労働争議で悪戦苦闘した日産の労働組合を一本化して、強力な統率のもとに、労使協調を実現化した最大の功労者であったからだ。塩路が自動車労連の会長として、豪華な自動車労連ビ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part6 日産の逆粉飾決算にたいする塩路の見解

1966(昭和42)年5月26日、大蔵省から、利益の多い大企業の利益処分に関連、いわゆる「逆粉飾」にたいして警告が発せられた。逆粉飾とは、出すべき利益を表面に出さず、諸引当金の形で内部留保することである。この内部留保にさいしては適正な税法上の措置を…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part5 幻の川又追放人事

川又が、労組に対し信頼をおいていたのには、大争議以外にも理由がある。1955年に起きた、幻のクーデターだ。もちろん、日産の社史からは抹殺された事件だ。 大争議での疲弊と、その直後の不況を克服した日産。ようやく経営に見通しがついてきた1955年の春。…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part4 塩路天皇

今年の2月1日、自動車労連元会長の塩路一郎が死んだ。86歳であった。 彼は、日産・プリンス合併の頃、肩幅が広くガッチリとした体型が頼もしい男だった。そして、その奥に潜む闘志は相当なもので、労組委員長としてこの男を敵に回したら、へたな経営者はあ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part3 歴史的な日産大争議

川又克二が日産社長の椅子に座ることとなった決定打は、歴史的な日産大争議の解決者だったことだ。川又は日産に乗り込むや、 「会社再建のためには人的整理の蛮勇をふるう以外に道はない」 と決意、組合と全面衝突となった。1949(昭和24)年9月のことである…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part2 川又が日産社長となった背景

日産の川又社長が、労務対策に関して大いに自信があったのには理由がある。川又は、1947年7月に、興銀の広島支店長から、日産自動車の常務として送り込まれ、赴任早々、日産の歴史的なストライキに直面、否応なくその対策に乗り出さねばならなかったからだ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part1

異なる会社が合併しても、同じ経営者であり、株主であり、労働者であるから、その根本の理念、利害関係は、経営者同士、共通しており、同様のことが、株主、労働者にもいえるはずだ。特に労働者は、その共通点が濃厚であり、決定的であるように思われる。古…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part17 突然、大衆車サニーを売れと言われても

旧プリンスの販売店には、大株主である石橋正二郎にたいする憧れもあり、同時に御料車とエンジン技術に一種の郷愁的な感情があった。それでプリンス系販売店会議で、車名変更に関する販売店オーナーの抗議に同調する空気が生まれたのであった。 日産プリンス…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part16  石橋に相談もなく決められた車名変更

グロリアからプリンスの4文字を削除した車名変更問題に関して、石橋相談役には一切、話がなかったと言われている。川又社長は、当時の経済評論家に対し、 「発表の直前に、石橋さんに報告、了解してもらった。だから、ぜんぜん相談しなかったわけではない」…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part15 哀れプリンスの名が消滅へ

1967年4月12日、東京・高輪のプリンスホテルで、日産自動車の新車発表パーティーが開催された。この日、日産グロリア新発売と書かれた赤い垂れ幕が、おりからのスモッグで汚れた東京の空に高く上がった。その鮮やかな色のアドバルーン(最近、見かけませんな)…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part14 トヨタ勝又グループの不都合な過去

合併が地方販売店に与えたショックを示す典型的な事件として、千葉プリンスと埼玉プリンスの例があげられる。この両販売店とも、その経営者は同一人物である。社長の勝又豊次郎は、この地域の自動車ディーラーを当時支配していたし、その息子たちが後継とな…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part13 プリンス販売店の悲喜劇

さて、従業員の場合、被合併当初、心配したのは、合併に伴う解雇である。しかし、おりからの自動車業界の好景気で、労働力が不足傾向にあったので、杞憂に終わった。むしろプリンスから、日産の社員になることで、一種の誇りすら感じたようだ。しかしながら…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part12 外山副社長の悲哀

人事の差別はしない、と明言した日産川又社長であるが、実際は明確な人事差別が行われたのは事実である。 その悲劇を象徴するのが外山保だ。 外山は1909(明治42)年4月生まれ。1930(昭和5)年、東京高等工芸(現千葉大学工学部)の精密機械科を卒業、プリンス…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part11 人事の差別はしないはずだったが。。。

日産とプリンスの合併の際、儀礼的であったかとも思われるが、石橋正二郎は、合併後の日産自動車の会長就任を要望された。しかし断った。その理由として、石橋は次のように語っている。 「私は目立つことが嫌いだ。今後は人事について相談にのる程度で、その…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part8 異例の合併比率変更

プリンスの経営内容が予想外に悪いことを知った日産の川又社長が、どんなに慌てふためいたかは、合併比率の急遽変更という措置に、端的に現れている。 当初、合併比率は1対2と、それがほとんど決定的のように伝えられた。事実、この種の合併発表に際し、合…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part7 質より量を選んだ川又克二

日産の川又克二社長は、質より量をとった。 川又は、プリンスの話に乗る3年前、軽自動車コニーの愛知機械を引き受け、その経営再建に努力、成功させた経験がある。同じ興銀出身の小田邦美が経営に失敗したのを尻拭いしたのである。その経験による自信も手伝…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part6 プリンス自販の酷い内容を見抜いていたトヨタ

桜内通産大臣は、プリンスの合併先として最初にトヨタを選んだが、断られてしまった。しかし、それで断念せず、日産自動車との合併を画策する。そのターゲットは社長の川又克二自身であった。そこで順序として、桜内はまず、興銀頭取の中山素平を訪ねた。興…