1965年7月7日、塩路一郎がジュネーブでのILO(国際労働機関)総会から帰国した頃から、「自動車労連が同盟を脱退し、総評傘下の全国金属に加盟するのも一つの方法だと思う」と対決姿勢をあらわにしていたプリンス労組はしだいに腰砕けとなってしまうのだ…
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