日産とプリンス合併の労組問題。。。Part11 

 1965年7月7日、塩路一郎がジュネーブでのILO(国際労働機関)総会から帰国した頃から、「自動車労連が同盟を脱退し、総評傘下の全国金属に加盟するのも一つの方法だと思う」と対決姿勢をあらわにしていたプリンス労組はしだいに腰砕けとなってしまうのだった。
 塩路は帰国すると直ちにプリンス労組の永井委員長と懇談した。この席上塩路が正式交渉を急ぐことを提案したのだが、永井は「急ぐことはない。企業が一つになれば、組合も一本となる」とゆずらなかった。
 しかし、つづく20日の会合では、プリンス労組側から、
「プリンス組合は従来とも、必ずしも全国金属のいいなりになっていなかった。我々の考えは、自動車労連や、日産労組とも大差ない」
と語っている。早くも日産労組に迎合する姿勢が表明されたのだった。
 塩路の組合合併への活動は、活発となっていった。7月28日に永井委員長と会談。8月2日は、自動車労連が箱根で青年祭を開催したが、それにプリンス側の大野事務局長以下5名の幹部を招待、さらに10日に永井委員長、15日に大野事務局長と個別に会談した。この調子でそれからの9〜11月と種々の説得工作を行っていたのだ。
 結局、12月8〜9の両日、日産労組の大会で塩路は、
「民主的な組織の運営には、特に組合幹部の指導性が要請されるが、プリンス労組の中央執行委員には、幹部としての誠意、責任、自覚など、まったく見られない。だから今後は、プリンスの職場の真面目な労働者とだけ手を携え、既成概念にとらわれず、現実的に合理的に、両労組の合併問題を解決していきたい」
と挨拶した。
 またこの席上に招かれた川又も、
労働組合と使用者とは、相容れない存在とは思わない。企業合併にあたって大切なものは、人の融和である。私たちは希望を大きく、働く人々の生活を豊かにし、より多くの幸福をもたらしたい」
と挨拶した。

 日産・プリンスの合併のとき、プリンス側の労組幹部がはじめに問題としたのは、
「合併は資本家側で推し進められたもので、労働者のためではない。川又社長は、国家的見地に立ってとか言うが、所詮、独占資本の合理化攻勢である」
ということであった。
これに対し塩路は次のように反論している。
「近代の資本主義社会の特徴は、資本と経営の分離であり、技術革新によってすべての世界は変わっている。経営者の大多数、ことに大企業には大資本家はなく、その大多数は大株主でもない。企業の70%は他人資本であり、借入金の大半は政府の財政措置とか、銀行の融資であるが、その根本は、国民の蓄積、税金、預金である。だから、企業は社会の公器である」
と反論した。
 これは塩路が日産に入社した当時からの信念と理論である。それは日産大争議の試練を経て、いっそう強いものになったようだ。

 その塩路が、日産とプリンスの組合統一を成功させた最大の武器は、第2組合の結成であった。
 合併にさいして、プリンス側から、
「プリンス労組はおっとりしていて、それだけ抵抗体質も弱く、その点から、日産塩路攻勢に崩されるだろう。プリンス労組は日産労使あげてのファッショ的、横暴極まりない切り崩しに、たちまち植民化され、その悲劇に泣くだろう」
といったプロパガンダが行われたが、このとき塩路は、このような言論を展開する労組幹部と、いくら交渉しても無駄だと判断した。そこで、日産大争議解決の先例にならって、第2組合的な勢力増大に力を注いでいったのだった。

この項つづく。