日産とプリンス合併の労組問題。。。Part10 プリンス労組潰しで川又と塩路の「あうんの呼吸」

 第2組合委員長3代目の塩路の時代になって、日産の組合は、一段と強固なものになったのは事実だ。塩路は「天皇」と影で言われる存在となった。塩路は日本油脂労組のときから、労組幹部がデマの流布に狂奔していると見るや、直談判して、堂々と反対意見を述べるという闘士であり、理論家であるが、夢想家ではない。相手の理論をその場でぶち壊すほどの熱い男であった。だからこそ、日産・プリンスの合併に際し、川又・塩路コンビの対プリンス労組対策が、大いに注目されたのだった。

 1965年6月1日、プリンス自動車労組の永井委員長と大野事務局長は、日産自動車労組の申し出で、会見、懇談した。前日の5月31日、日産・プリンスの歴史的な合併が成立、両社首脳部によって、覚書調印が行われたからである。
 この会見は6月中に4回もなされたが、このとき日産労組は、
「企業が合併したから労組も一本になるのだというような、企業に従属した考え方ではなく、組合が主体性をもって、どうすれば組合員にとって一番プラスになるか、両者で話し合いを進めることが必要である」
と主張した。
 これに対しプリンス労組側は、
「合併は、資本家が合理化政策の一環として推進したものだから、組合としては関知しない。しかし、企業が合併するのだから、組合も一本になるのが当然だと思う。自動車労連が同盟を脱退し、総評傘下の全国金属に加盟するのも一つの方法だと思う」
と答えている。
 この間、プリンス労組の一部の共産党員は、日産・プリンスの労働条件の比較ビラを配布、合併反対を呼びかけていた。日産の待遇はプリンスよりも低いという内容だった。

 合併の年の1月初めに、川又から塩路へ社長室へ呼び出しがかかった。
川又「桜内通産大臣が日産にみえて、プリンス自動車との合併を提案された。その後プリンスの大株主・ブリヂストンタイヤの石橋正二郎さんとお会いした。どうするかはこれからだが、この合併を組合はどう考えますか」
塩路「日産は他社との合併があるかもしれないと考えておりますので、プリンスとの話には反対しません。というよりも、これは国の重要課題を日産が担うことでもありますから、組合の立場からそれが成功するように努力したいと思います」
川又「プリンスの組合は総評の全国金属だそうですが、付き合いはあるのですか」
塩路「今年の秋に自動車労組の全国協議体を結成する予定で、ここ数年来メーカー労組が会合を続けている中に、プリンスも入っております。泊まりがけの会議なので、夜一緒に飲みに出かけることもあります」
くれぐれも内密にということで、合併に関する話はこれだけで終わったと塩路は述懐している。川又からの指示で塩路が組合合併に奔走したという話は事実無根だと塩路は書き残しているが、どこまで本当なのかは誰にもわからない。

 ただひとつ事実なのは、川又と塩路の利害は「プリンス労組潰し」で一致していたことである。あうんの呼吸というものが両者の間にはあったはずだ。

この項つづく。