日産とプリンス合併の労組問題。。。Part7 日本油脂で味わった共産党への失望

 塩路一郎は、ある意味、社長の川又よりも日産では輝かしい存在であった。彼は労働争議で悪戦苦闘した日産の労働組合を一本化して、強力な統率のもとに、労使協調を実現化した最大の功労者であったからだ。塩路が自動車労連の会長として、豪華な自動車労連ビルで、運転手付きのクルマを持ち、秘書を持っているのは当然ともいえよう。ただ、旧総評傘下の全国金属労組の連中に言わせると、「典型的な労働貴族、社長とツーツーで、重役よりも優遇されている」というのだ。
 塩路は、1927(昭和2)年、東京は神田に生まれ、芝で育った江戸っ子である。芝三光小学校から、旧市立一中(後の九段高校09年に廃校)に進んだ。父は和歌山県御坊市の出身で、むかし有名であった小児牛乳という牛乳メーカーを共同経営していたが、戦時中は病床にあった。塩路は長男であった。そこで市立一中を卒業、海軍機関学校に入学した。月謝のいらないこともあり、また戦時下でもあったので、あえて選んだのだった。それに子供の頃から機械いじりが好きで、ラジオの組立などに熱中していたから、将来はエンジニアとして、海軍の技術将校か、一流企業の技術者になろうと考えていた。
 敗戦、そしてその年に父は亡くなってしまう。塩路の描いた夢は消え去った。幼い弟妹をかかえて、生き抜くためのさまざまな職業遍歴がはじまった。その数は本人も数え切れないものだった。
 まず第二復員省から委託された引揚者輸送に携わった。つぎに小さな店を持ち、配線工事をはじめた。引揚者が少なくなって、引揚者輸送の仕事も暇になったからである。つぎにダンスを習ってダンス教師となり、またラジオの修理屋に転職、ブローカーなど転々とした。敗戦後の4年間は、日本は社会も経済も混迷していたが、当時20歳前後の塩路青年は、それを絵に書いたように遍歴したのだった。しかし、ここに偶然、後の塩路委員長の運命が切り開かれた。1949年春、日本油脂(現・日油)の王子工場工員募集に旧制中学卒業の学歴で応募し合格した。
 日本油脂は、日産系の化学工業会社であった。旧制中学卒の塩路の仕事は、石鹸やマーガリンの倉庫係。ここで働きながら旧制最後の明治大学法学部夜間部に入学した。そして先輩から労働組合に勧誘され、初めて組合運動というものを知った。
 この頃、皇居前で米兵への暴行事件があった。「皇居前広場で組合の集会がある」と誘われた塩路は偶然に、その現場に居合わせた。これは米兵が共産党系の組合に対してスパイ行為を行っていたというものであったが、米兵は音楽でもやるのかと見物していただけであった。翌日の夕方に会社の講堂で行われた賃金問題に関する全員集会で、組合幹部たちは米兵によるスパイ事件をでっち上げて、ゼネストに持っていこうと画策、塩路は憤慨した。当時の労組幹部はほとんどが共産党員であった。彼らが目的のために手段を選ばないことに憤慨した塩路は、直接労組幹部に会い、
「嘘をつかず、本当のことを公表すべきだ」
と激しく言い争った。しかし結局「資本家のイヌ」というレッテルを貼られ、レッドパージによる共産党員排除の後でも、塩路は日本油脂では組合青年部でありながら、活動を封じられてしまった。共産党はいなくなったが、会社へのイエスマンだらけの組合幹部となってしまった。しかも、組合に学歴による待遇差別の是正を訴えたが、暖簾に袖押しであった。
 塩路は労組幹部に失望すると同時に、日本油脂の職場にも絶望した。毎日、科学・ラジオ雑誌を読みふけった。そして明大法学部の卒業見込みがつくと、転職を決意した。このとき目についたのが同系列の日産自動車であった。

この項つづく。