日産とプリンス合併の労組問題。。。Part3 歴史的な日産大争議

 川又克二が日産社長の椅子に座ることとなった決定打は、歴史的な日産大争議の解決者だったことだ。川又は日産に乗り込むや、
「会社再建のためには人的整理の蛮勇をふるう以外に道はない」
と決意、組合と全面衝突となった。1949(昭和24)年9月のことである。しかし、事態は悪化するばかりだった。翌年6月、朝鮮戦争が起こり、車両関係の特需が増大し、経営が少しばかり楽になると、組合側は団結を強化、賃上げ要求の幅は大きくなり、ことに人員の配備に対する要求が増大した。残業も組合の承諾なしでは簡単にできないようになった。普段マジメでよく働く従業員が、いったん組合から指令が出ると、就業時間中に、職場集会に出席し、仕事を中断する。しかも、会社側は誰が参加し、誰が参加しなかったか、掌握できないため、欠勤時間分の給料を差し引くことはできない。こんな状態が約3年も続いた。
 1953年5月、川又は慢性盲腸炎の手術を受け、静養のために神奈川県・湯河原温泉に出かけた。そこで組合側からマーケット・バスケット方式のベースアップ要求が出たことを知った。経験15年で3万円が最低で、全要求をまとめると、税込賃金の平均が約23,300円という、当時としては常識を超えた高賃金であった。
 川又は、
「いま組合を徹底的に叩かなければ、会社の前途は危険だ」
と思った。
そこで最後の手段として、ロックアウト、つまり工場の閉鎖を決意したのである。ロックアウトによって、組合の要求と徹底的に戦い、これに敗れたら、経営陣の総退陣までも覚悟したのだった。
 川又は、当時の心境として、
「解決のため、中労委の仲裁の話もあったが、争議の性格から、中労委の斡旋程度で解決できる生易しいものではなかった」
と語っている。
ロックアウトを実行したのは、8月5日(1953年)の朝であった。その前夜、雨のしとしと降る中を、極秘裡に目黒の雅叙園に集合、籠城舞台を編成、バリケードを組むために、木材や鉄条網も、すぐ現場に運んで組み立てる手はずを整えた。真夜中の雨をついて、雨合羽に身を包んだ籠城部隊がトラックに分乗、出発していったとき、見送る私の胸の悲壮さ、緊迫感は言葉で表現できないくらいだった」
とも川又は語っている。このような緊張感の中で、バリケードは完成、会社側はロックアウト宣言に成功したのだった。
 しかし、争議解決に積極的な役割を果たしたのは、ロックアウト宣言より1年前の1952年8月に発生した「民主化グループ」であった。日産の内部には、争議の最中から、若手技術者を中心とした起業研究会があり、そのグループは争議の深刻化にともない、組合執行部に批判的な態度をとるようになった。それが1953年8月30日に、第2組合として結成され、浅草公会堂で発会式が行われた。当初は500人であったが、しだいに1,000人、2,000人と拡大した。
 ロックアウト宣言後の川又は、当面、賃上げを認めないことを条件に、第2組合と一連の妥結条件を結び、第2組合の従業員にだけ、就業を認めたのであった。それでついに第1組合も折れ、結局、1953年9月末、同条件で妥結。悪戦苦闘しながら、会社側が勝利したのであった。まもなく第1組合員は、完全に第2組合に吸収され、日産の労組は、新発足するにいたったのだ。
 川又が、プリンスの吸収合併に応ずる態度を決め、プリンス労組が総評参加の全国金属に属することを思うと、想起したことのひとつは、この歴史的な大争議のことであり、さらに争議解決に重大な役割を演じた第2組合の出現であった。この瞬間、川又の頭に浮かんだのは、自動車労連会長である塩路一郎の存在である。表面上、社長VS労組委員長といった形だが、川又が最も信頼する委員長である。急に川又は、塩路に大きく力強いものを感じていた。プリンス合併の自信に拍車がかかるのだった。

この項つづく。