日産とプリンス合併の労組問題。。。Part5 幻の川又追放人事

 川又が、労組に対し信頼をおいていたのには、大争議以外にも理由がある。1955年に起きた、幻のクーデターだ。もちろん、日産の社史からは抹殺された事件だ。

 大争議での疲弊と、その直後の不況を克服した日産。ようやく経営に見通しがついてきた1955年の春。日産の経営内部では株主総会に向けて陰謀が企てられようとしていた。後に社長となる石原俊の企みによる川又の追放工作であった
 赤坂の弁解橋の料亭「清水」や、いまはない「中川」等を使い、浅原社長を擁して役員と部長クラスの秘密会議が行われていたのだった。そして彼らは、「川又は労働争議を解決したことで、いい気になり、赤坂で遊び呆けている」とのデマを流した。それを真に受けて興銀は、川又専務を日産から出すことに了解した。
 1955(昭和30)年5月1日メーデーの日の午後、川又の甥である田辺邦行(設計部長、後に日産車体常務)が塩路の家を訪問してきて、「大変だ、川又さんが飛ばされると」いう。「争議を解決して、新しい労使関係で日産の再建に協力し合ってきた片方の旗頭が、こんどの株主総会で社外に出される」というのだ。
 塩路は機転を利かせて、直接、宮家委員長に伝えるよう頼んだ。
 翌日の組合首脳部緊急会合で、日産争議を乗り切った会社側のリーダー川又が讒言で飛ばされることが報告された。しかも、川又の追放を企んだ連中は、争議中は渦中から逃げて傍観を装った輩だった。
 塩路の指示で横浜工場のラインは組合員によりストップされた。その間、宮家委員長が興銀に乗りこみ、「川又専務を追い出すのなら、我々が守った会社は我々が潰す、いまラインが止まっているが、いつまで止まるかわからない」と直談判した結果、興銀は組合側の要求を受け入れることとなった。
 石原は、川又の家に訪問、応接間にて「川又さん、あんたね、もうこうなったら、日産車体でも貰って、おとなしく引き下がった方がいいよ」と脅していた。しかも両足をテーブルにのっけながら。石原は平取締役の経理部長であった。その彼を部長にしたのは川又である。まるで飼い犬に噛まれたようなものであった。
 何れにしても、組合側の行動により、石原による川又へのクーデター工作は失敗に終わった。石原はこのとき43歳、この企てでは岩越忠恕常務も社外に出し、大館常務を社長にした後、40代で自分が社長になることを目論んでいたようだ。それから22年もの長きの間、社長になる65歳まで、クーデターを妨げた者への逆恨みを秘めて隠忍自重の日々を石原は過ごすことになる。

この項つづく。