日産とプリンス合併の労組問題。。。Part4 塩路天皇

 今年の2月1日、自動車労連元会長の塩路一郎が死んだ。86歳であった。
 彼は、日産・プリンス合併の頃、肩幅が広くガッチリとした体型が頼もしい男だった。そして、その奥に潜む闘志は相当なもので、労組委員長としてこの男を敵に回したら、へたな経営者はあっという間に白旗を上げるのだろう。それだけに味方につければ鬼に金棒となった。
 自動車労連ビルは7階建てで、その工事費は当時3億円にもなった。一部に会社側に建ててもらったといった説も流布されたが、実際は2億円が組合資金、1億円が借入金である。ただし借入金は会社側が保証していた。
塩路によれば、
金は天下の回りもの。どこの金を使おうと気にすることはない
のだそうだ。
 塩路は誰がいうともなく「塩路天皇」の異称で呼ばれていた。日産自動車では、一番が社長の川又克二、次が副社長の岩越忠恕、三番が塩路一郎で、これを「三ボス」と称する者すらいたという。塩路が日産本社に現れると、課長はもちろん、部長クラスまで、黙って道を開けるといわれていた。また、塩路が面会を申し込むと、川又は何をおいても、その申し込みに応ずる。自動車労連会長室は、労組とは思えない豪華さであり、女性秘書から専用のクルマまで用意されていた。これはプリンス労組員には、想像もできないものであり、口の悪い左派の連中からは「労働貴族」と揶揄されることとなった。
 この塩路が、合併に対する信念として、
「合併の成否は、人間関係の解決が第一であり、合併成功のカギの半分以上は労組が握っている。会社の在り方、組合の在り方については、社長と自分は完全に一致している。企業内組合は、会社の発展とともに存在する。労使対等という言葉もここから生ずる。だから、今度の合併でも、我々は積極的に会社に協力する」
と言い切ったのだった。
 この塩路の縦横無尽の活躍が、日産とプリンスの労組統一に果たした功績は大きいのである。

 ところで、川又には労組に対する恩があったことが、塩路によって昨年、暴露されている。そこには日産が凋落していったキッカケが隠されている。。。

この項つづく。