日産とプリンス 合併の裏で。。。Part15 哀れプリンスの名が消滅へ

 1967年4月12日、東京・高輪のプリンスホテルで、日産自動車の新車発表パーティーが開催された。この日、日産グロリア新発売と書かれた赤い垂れ幕が、おりからのスモッグで汚れた東京の空に高く上がった。その鮮やかな色のアドバルーン(最近、見かけませんな)は、空を仰ぐ人の目に、印象的に映ったのだった。あの頃の高輪プリンスがある品川駅前は、少々寂しいところではあったが、クルマのもつ魅力は、今では想像できないほどに強くて、特に新車発表は好奇心を刺激するものだったのだ。当日は、自動車業界関係者はもちろんのこと、財界関係筋も多数来場していたようだ。
 発表された新車は、旧プリンス・グロリアのフルモデルチェンジと大衆車サニーの4ドア等のバリエーションであった。そのうち、発表前から注目されていたのがグロリアである。縦目4灯ヘッドライトのフロントマスクは、皇室との長い間の関係からプリンスで開発されたものの、
合併によりニッサン・プリンス・ロイヤル命名された御料車のイメージであり、ロイヤルルックと称された。これが会場の人々の目を釘付けとした*1
 しかし、人々の驚きは別にあった。それは、このモデルチェンジ車の車名である。前年の合併後の正式名称はニッサン・プリンス・グロリアであったのが、今回の発表で、プリンスの文字は消滅、ニッサン・グロリアに改名されていたからである。来場したある財界人は、
プリンス・ホテルでの新車発表のパーティーにプリンスの名が消されているとはね。。。」
と意味深なため息を吐いていたという。
 このグロリア改名事件の前に、同じようなことが既に起こっていた。第3回日本グランプリで優勝したプリンスR380の改良型は、開発陣がプリンス側の人間であったにもかかわらず、車名はニッサンR380に変更されてしまったのである*2
 披露のパーティーでは、川又はモーニング姿で挨拶した。
名前を変更した理由について川又は、
「私は、ニッサン・プリンス・グロリアで、いいじゃないかと言ったんだよ。しかし、プリンス系の販売店の皆さんが、長すぎるからプリンスの4字を削ってくれと言うのだ。要するに下からの盛り上がりですよ」
と、事も無げに答えるのであった。
 車名が長すぎるのは確かだ。そして、ニッサンとプリンスのどちらを削除するかといえば、そこは力関係である。プリンスの名が外されるのは当然かもしれない。
しかし、それを川又は、
圧倒的なプリンス販売店の要望で。。。」
と付言したとまで言われている。

この項つづく。

*1:しかしながら、その内容は旧グロリアとは大きくかけ離れたものであった。中身は日産セドリックとの部品共用化が大きく推し進められた結果、初代以来の特徴であった、ド・ディオン・リアアクスルは平凡なリーフリジットとなってしまい、4気筒エンジンは日産製が搭載された。

*2:合併時のプリンス側ワークスドライバーの待遇は最悪だった。合併時の規約で、社員の業務としてのレース出場は認めないという項目により、3人のプリンス社員はレースに出場できなくなってしまったのである。その内の1人は倉庫番に回されたという。