日産とプリンス合併の労組問題。。。Part1

 異なる会社が合併しても、同じ経営者であり、株主であり、労働者であるから、その根本の理念、利害関係は、経営者同士、共通しており、同様のことが、株主、労働者にもいえるはずだ。特に労働者は、その共通点が濃厚であり、決定的であるように思われる。古典的なマルクスの「万国の労働者よ、団結せよ」という言葉は、新自由主義が跋扈する現代でも通用している。ところが、現実には、会社が合併したり統合されたりすると、お互いの主張がまとまらず、一番混乱するのは、まず双方の労働組合同士であったのは、60年代当時は当たり前のことであった。
 日産とプリンスの合併話が表面化した1965年6月当時、プリンスの従業員は8,100名で、日産の16,500名と比べると半分となる。しかも日産の労組は、所謂「御用組合」と称された反共を旗印とした旧民社党支持の同盟系であり、それだけに会社側に協力的な労組だった。これに対し、プリンス労組は、旧社会党支持の総評系の全国金属労組最大の組織であり、その性格は、まさに水と油であった。それだけに、なおさら日産・プリンスの合併に際し懸念されたのは、両社の労組統一であった。
 当時、労組統一に関するいろいろな問題が起こっていた。例えば、1966年4月に呉羽紡績を吸収合併した東洋紡である。合併人事はスムーズにいったが、両社の労組合併は不発に終わった。両社とも同じ全繊同盟を背景とする労組である。組合活動の理念に相違があるはずはない。それなのに組合費は別々の組織に納められ、会合その他も別々に行われた。このような異常な事態が1年以上も続いた。
 1964年6月、三菱系の新三菱重工業、三菱日本重工業、それに三菱造船の三社が一大合同、三菱重工業としての再出発が発表された。これは、終戦後最大の歴史的な大合同であった。
このとき財界筋は
「合併三社は、戦前の三菱重工業が、敗戦に伴う財閥解体で分割を余儀なくされたのだが、ここで元の鞘に収まるのだから、経営首脳部自体に、大きな問題はない」
とまずは合併が歓迎された。しかし、三社の労組は、それぞれ所属が違っており、意識的にも、力関係の差が激しいから、合併後の組合対策に、新首脳部は大いなる関心を注ぐべきだと言われていた。事実、その通りだったのだ。こういった先例があるだけに、世間の関心は、日産・プリンス合併後の労組問題に注目したのだった。しかし、それを知らない日産・川又社長ではなかった。
 
 もともと川又は労組対策に絶大の自信がある男だったのである。

この項つづく。