日産とプリンス 合併の裏で。。。Part7 質より量を選んだ川又克二

 日産の川又克二社長は、質より量をとった。

 川又は、プリンスの話に乗る3年前、軽自動車コニーの愛知機械を引き受け、その経営再建に努力、成功させた経験がある。同じ興銀出身の小田邦美が経営に失敗したのを尻拭いしたのである。その経験による自信も手伝い、プリンスの話に乗った。ことに川又が目をつけたのは、プリンスの技術陣である。戦時中、活躍した中島飛行機の技術陣は、業界でも有名であった。プリンスは、その中島飛行機の技術者が中心となって、戦後、再出発した会社である。成長する自動車業界で、なにより必要なのは技術力であるが、短時間で育成しうるものではない。ことに、現実的な魅力は、プリンスが天皇御料車をつくりつつあるという事実であった。これは広告宣伝としてもそうとうアピールするものであった。同時に、第3回日本グランプリで優勝したプリンスR380の開発も捨てがたかった。

 プリンスの持つ三鷹荻窪、村山の3工場も、日産の工場に比較、地理的条件にめぐまれていることで、川又には魅力があった。さらに金融関係の拡大である。日産は興銀が主力銀行で、ついで富士、三和、協和、それに安田信託で、住友との関係は極めて薄かった。しかし、プリンスを合併することで、当然、住友との関係が深くなる。住友は、同じ都市銀行でも、当時、預金高の増加が顕著なことで有名となっていた。興銀を主軸に、4大銀行のうち富士、住友、三和をもつことは、日産自動車としては、まさに鬼に金棒である。トヨタの三井、東海、長期信用銀行といった提携先と比較して、だんぜんに光るのであった。要するに、川又は、プリンスとの合併を断ったトヨタ東洋工業と異なり、合併によるデメリットを無視、メリットの面だけを考え、飛びついたといえる。

しかし、そのデメリットは、川又の予想以上に大きかったのである。。。

この項つづく。