日産とプリンス 合併の裏で。。。Part8 異例の合併比率変更

 プリンスの経営内容が予想外に悪いことを知った日産の川又社長が、どんなに慌てふためいたかは、合併比率の急遽変更という措置に、端的に現れている。

 当初、合併比率は1対2と、それがほとんど決定的のように伝えられた。事実、この種の合併発表に際し、合併比率は最大の重要事項である。それを決めずに、ただ単に合併するとだけ発表する場合もあるが、いったん比率を発表した場合、それが変更される例は皆無に等しい。しかし川又は、その比率変更を敢えて行ったのである。これは見方によれば、たしかに勇気あることで、今までにみられなかった新しい姿ともいえるが、しかし、少なくとも、旧プリンスの株主にとっては、これほど馬鹿にされた話はない。事実、プリンスの株価の下落は止まらなかった。
 両者合併に伴う具体的な作業は、1966年3月末から興銀常務の梶浦英夫と、住友銀行専務の高橋吉隆*1によって進められたが、この作業に着手するとき、住友銀行頭取の堀田庄三は、
「合併する以上、両者の実態を徹底的に洗い、途中で腰砕けにならないように」
と注意した。
 合併の悪しき例に、三井物産と木下産商*2がある。三井物産が合併を急ぐあまりに、ろくに相手を調査しなかったため、合併に際し債務の棚上げでもめ、合併期日の延期、さらに合併方式の変更という醜態を演じたのであった。
 堀田としては、当面、プリンスが経営に行き詰って、日産に身売りするのではなく、あくまでも自動車業界の「国際競争力の強化」という錦の御旗で合併させるのだという、銀行マンとしての自覚とプライドを喪失したくなかった。それはまた、堀田の石橋に対する親心だったのかもしれないが。。。
 そこで、実質的には日産がプリンスを吸収するにしても、表面の謳い文句は「対等の精神」であった。しかし、合併の内容は、あくまで冷酷に実質的でなければならない。それで堀田は、
「この際、両社の実態を徹底的に洗って、悔いを残さないように」
と、重ねて言っている。これは興銀頭取の中山素平も、同じ心境であったはずだ。
 この堀田の注意もあって、梶浦、高橋は、極秘裡に十数回も会合している。わずか1ヶ月たらずの期間であるから、通常業務は放棄した状態であった。この結果、プリンス自販側に、驚くべき債務があることが判明、当初の1対2の合併比率が1対2.5と、プリンス側に不利になったのである。
 
 しかし、それ以上に言えることは、1965年6月1日、両者の合併が発表されるや、プリンス側のユーザーが合併に不満を抱き、その結果、正式な合併調印(1966年4月20日)までの1年近い期間に、プリンス側の経営状態が一段と悪化したことである。合併発表当時も、日産側が想定した以上にプリンスの債務がよくなかったことは事実だが、合併発表で、さらに業績悪化に拍車を加えたことも事実であった。
 具体的に、プリンスの代表車種であるグロリアでみると、1964年度の年間販売台数20,500台が翌年には12,025台に激減している。この事実は、プリンス自販の弱体化を物語ることでもあるが、このマイナス面の相当部分は日産も背負わなかればならないのだ。日産側は、この事情をほとんど考慮しなかった。
 日産側としては1対4という合併比率でも割に合わない内容であった。
 そのため、合併が発表され、さらに正式調印が終わって以降、いまさらのように、大株主・石橋正二郎とメインバンクの住友銀行頭取である堀田庄三の売り逃げ説がリークされたのだ。合併比率の変更で、プリンスの株価は一段と下落、プリンスの一般投資家は二重の損失を被ったのであった。

 ともかく、日産はプリンスを吸収合併した。この結果、企業規模、ことに従業員数、資本金ではトヨタを抜いて、たしかに日産は日本一の自動車会社になった。
 しかし、日本一への執念に燃える川又が、量的拡大を焦ったばかりに、プリンスを吸収した日産は質的には低下してしまったのは事実である。具体的な数字をあげると、従業員1人あたりの生産金額が、プリンス吸収後の日産は、1人あたり年間100万円近くも下がっているのだ。これは現在の価値で言えば約1千万円である。1964年当時は、トヨタに対し1人あたり100万円も差をつけてトップとなっていたこともある日産が、1966年には、トヨタに比較して、じつに200万円を超える差がついてしまったのだ。
 この事実は、日産自動車が、プリンスとの合併で、規模だけは大きくなったが、身を伴わない、水ぶくれ体質になったことを物語っている。

 だが、こうした日産の経営体質の悪化以上に、悲劇的だったのが、プリンスの従業員であり、販売会社であった。

この項つづく。

*1:彼は合併後出世して副頭取に昇進している。

*2:1958年に日本とインドネシアは、植民地支配に対する賠償協定を締結した。賠償金は2億2300万ドル、当時の日本円で約830億円という内容だった。この金額は当初のインドネシア側の要求額の10分の1にも満たない額であったが、経済危機脱出、財政再建を急いでいた同国は、一刻も早く外貨資金を必要としており、妥協したのであった。スカルノは貿易振興によって国家経済を立て直そうと考えており、そのための輸送船舶を日本から購入することにした。そして、この取引・利権をめぐって、日本の商社、政商、自民党の政治家が暗躍することになる。賠償金ビジネスというべきものであった。そのため、東南アジアは日本軍の蛮行に寛大という流れがある。そして、いち早くスカルノ大統領に食い込んだのが、中堅商社である木下産商であった。同社のバックには、岸信介首相がついていた。木下産商は、お忍びで来日するスカルノを接待する手段として、赤坂のクラブホステスをスカルノに差し出し、夜の相手を務めさせたと言われている。