日産

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part2

日産とプリンス合併を主導したのは通産省であった。当時の通産大臣は、自民党の河野一郎*1派を背景とする桜内義雄であり、次官は佐橋滋であった。通産省のスポークスマン的存在であり、「ミスター通産省」と呼ばれていたほどの男だ。城山三郎の『官僚たちの…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part1

昨日書いた富士重工もそうだが、プリンス自動車工業も「技術あって経営なし」の企業であったことは事実だ。モータリゼーションの息吹がこれから本格的に芽生えようとしていた60年代初頭の日本にあって、そのラインナップに小型大衆車が無いというバランスを…

Nissan CEDRIC

50年前の日本タクシー業界では、中型車はトヨタ、小型車では日産という住み分けが長い間続いていたが、1960年の3月に、日産がセドリック(アメリカの有名な小説『小公子』の主人公セドリックの名にちなんでつけられた)を発表し、ただちに生産を開始したの…

60年代 新聞の広告から

資料提供 AD氏。

GUIDE to The MOTOR INDUSTRY of JAPAN 1961 edition Part 1

1959年にデビューしたブルーバード。初めて前輪は独立懸架となった。ギアボックスはコラムの3段、下り坂では簡単にフェードするブレーキが弱点であった。 1960年にデビューしたセドリック。中身はほぼ AUSTINである。ボディは日産初のモノコックであった。…

Nissan Violet VAN

4cyl SOHC 1400cc 85ps/6000rpm.バイオレットは、510よりも大きくなったブルーバードUとサニーの間を穴埋めするために企画されたクルマだが、当時としては大胆なファストバックのセダンが受けいられることはなかった。中身は、ほぼ510であり、リアは…

Lancia Lunch 2012 ですが、日本車から。。。

TOYOTA SERA MAZDA AZ-1 SUZUKI FRONTE COUPE GX DATSUN 240 RS

茂原ツインサーキットにて。。。Part 1

TOYOTA SPRINTER TORENO GT レアですねぇ。カローラの若者向けヴァージョンがスプリンターでした。リフト・バックが売り物でしたね。 SUZUKI FRONTE DELUX どことなく Fiat 850の影響が見受けられる雰囲気。デラックスというグレードが時代ですなぁ♪ Nissan S…

Nissan R381

レースには勝利したのかもしれないが、エンジンがシヴォレーというのが情けないマシン。腑に落ちない点である。 滝レーシングのローラと。

映画 『栄光への 5000キロ』

最近、NHKのBSで放送されたので觀た方も多かつたのではないだらうか。 原作は1966年の同ラリーに於て日産チーム監督としてクラス優勝、チーム優勝を經驗した笠原剛三の「榮光への5000キロ―東アフリカ・サファリ・ラリー優勝記録」。撮影は1969年の第17…

1967 4th NIPPON GRAND PRIX 公式プログラム

PORSCHE 906 NISSAN R-380 第4回日本グランプリの話題は宿命の対決、日産(プリンス)ワークス R-380 VS プライベート Porsche 906との戦いであったが、日産とプリンスの合併後のレースはピット内ではギクシャクしたものが生まれていたようだ。合併により日産…

1966 NISSAN Datsun Bluebird Berlina Fancy Deluxe

ダットサン・ブルーバード。基本デザインはルーフラインからして、誰が見てもピニンファリーナに間違ひないのですが、日産は未だに公式に認めてをりません。 ところで「ファンシー・デラックス」と云ふネーミングには郷愁感がありますな。だい度いファンシーな…

Auto Modeler in Yokohama 嗚呼 日産編

日産には車内に日産テクノモデラーズクラブと云ふのがあるらしく、横濱新子安ゲストホールにて、自動車モデラーの集ひに、モデラーではない自分が見物人の立場で見學させてもらひました。 ノガミさんの作品。一部は手書きでマーキングしてをります! セドリ…

日産自動車 旧本社ビル

此れは横濱市認定歴史的建造物である。1934(昭和9)年、ダット自動車を買收した戸畑鑄物の鮎川義介が同年6月には倍額増資して日産自動車と社名を改め、横濱新子安に厖大な工場の建設を始めた。其の時に建てられた本社社屋である。鮎川は此處で小型車ダット…

CG CLUB関東イベント 「Super TTD in ZAMA」  Old DATSUN

■ダットサン誕生と日産創業者の鮎川義介による乗っ取り “ダットサン”といえば、かつてトヨタの“トヨペット”に対抗する小型車としてニッサンを指すほど一般化されたブランド名だった。北米市場では“NISSAN”よりも“DATSUN”というブランド名の方が浸透していた(…

原子力発電が必要な日産のカッコ悪い電気自動車なんぞいらねぇ

これほど欺瞞に満ちたCMは東電のオール電化マンションのCM以外に見たことが無い。 電気自動車はエコ(これほど疑わしい言葉は無い)だと主張したいのだろう。無知な一般人にはわかりやすいCM。電気の発電に原子力発電が含まれている先進諸国では、電気自…

日産追浜工場

これも風評被害といいたいのだろうが、同じ経団連で東電のお仲間であった日産に言われたくないねぇ。 元追浜工場で働いていた者として言わせてもらうが、放射能以前の問題として、アスベストの壁をそのままにして非正規労働者を働かせていた日産ってどうよ?…

櫻井眞一郎が認めないケンとメリーのスカイライン 

11歳の頃、4代目スカイライン(C110)は憧れのクルマだった。日本車には珍しいブルーメタリックが似合っていた。 白人に弱い日本人気質を狙ったケンとメリーというモデルを使ったCMが大当たり、現在に至るまで歴代スカイラインの販売台数1位のクルマとな…

スカイラインとともに 櫻井眞一郎

先月、他界された櫻井眞一郎の著書を読むことができた。 “スカイライン”という日本ではファナティックな人気があるクルマの開発に、1957年の初代から1985年の7代目まで関わった設計者自身の手記だ。 著書を読み進むと、自分が描いていた櫻井眞一郎像とは、…

The World's Worst Cars Part 10 DATSUN 120Y (1974-1978)

4年間で欧州と北米で240万台を販売した日産のヒット作。低価格で走りもデザインもマアマアだったので売れたのだが、日本車にもかかわらずサビに弱いことがバレてクレームの嵐にディーラーを巻き込んだクルマ。 トランクフロア、サイドシル、サブフレーム…

1937, ニッサン 70型 デラックス セダン

颯爽と自動車を箱根まで運転するモダンガール。中国との戦争は泥沼化の様相を呈していた時代、ガソリンは配給制となり一部の富裕層もクルマどころではなかったはず。この3年後には「日本人なら贅沢は出来ない筈だ」などという恐ろしいスローガンも現れる始…

The World's Worst Cars Part3

世界の最悪クルマ、気の所為かフォードのクルマが多いような気がするが、今回は壊れにくいことだけが自慢の日本車が目白押し。 FORD SCORPIO(1994-2000)

1959, DATSUN 1000 Type 211

水冷直列4気筒 OHV 988cc 34ps/4400rpm 戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命により自動車の生産を制限されていた日産。1949年にその禁は解除されたが、技術的な遅れはどうしようもなく、日野がルノーをいすゞがヒルマンをライセンス生産するのに倣い…

CLUB ZAGATO GIPPONE 2010 その2 ZAGATO HISTORY & JAPANESE BIZARRE CAR

Ugo Zagato (1890 - 1968)CARグラフィック1967年10月号の記事によれば、ミラノのカロッツェリア・ザガートの創立者ウーゴ・ザガート。Venezia 生まれの精力的な職工であった彼が、長年にわたる経験をもとに自分の工場をもったのは1919年であった。第1次世界…

ひさびさにコントローラー握ってきます

明日は予報では台風ということなのですが、都内某所のホーム・サーキットに出かけてきます。 8月の騒動(苦笑)以来、サーキットには出かけていないので、久々のデジタル・コントローラーの出動です。 ノーマグのレギュレーションなので、練習がてら行ってま…