1959, DATSUN 1000 Type 211


水冷直列4気筒 OHV 988cc 34ps/4400rpm

戦後、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の命により自動車の生産を制限されていた日産。1949年にその禁は解除されたが、技術的な遅れはどうしようもなく、日野がルノーいすゞヒルマンをライセンス生産するのに倣い日産は英国オースチン車をライセンス生産、徐々に部品を国産化してそのノウハウを学んだのであった。
http://www.asahi-net.or.jp/~rf7k-inue/izen/no-5/austin/austin.html

DATSUN は戦前からある日産のブランドだが、戦後は戦前のモデルをベースとしたモデルを造っていた。
1955年にシャシーとボディーを自社製にした110型がデビューする。エンジンは戦前のサイドバルブ860cc 25馬力、デザインは佐藤章蔵*1で改良された112型は1956年度の毎日工業デザイン賞を受賞した。受賞理由は「日本の貧乏を肯定した健康的なデザイン」というものであった。
同じ1955年に登場しているシトロエンDS19の美しい前衛芸術とも言えるデザインと比べてみてほしい。

車格が違うとはいえ、このデザインの落差には相当な年月の開きが感じられる。授賞理由も日本自動車業界の貧相な状況*2を反映したもので仕方ないということか。

210型は当時日産がライセンス生産していた Austin A50 Cambridge の1500ccエンジンをストロークを30mm詰めて搭載したもの。抜群の耐久性でタクシー業界に人気で日産の地位上昇に大いに貢献したクルマだった。211型はその最終型である。



C型と呼ばれたオースチンがベースのエンジンは当初新設計のエンジンが開発されていたが、当時日産に技術顧問として招聘されていたドナルド・ストーン氏による、「オースチン生産ラインを生かして生産するべきだ」という提案に従ったもの。そのため、エンジンはインチ規格、その他はメートル規格のネジが使われていた。通称「ストーンエンジン」と呼ばれていたそうだ。




見るからに空調設備の貧弱な室内。日本特有の梅雨時には窓が曇って大変だったろうと想像される。120㎞/hまで目盛られたメーターパネルのビスも剥き出しだ。パネルには製造元であろう、“AUTO METER TOKYO”の文字がある。





タイアは BF Goodrich を履いていた。もう国産メーカーにはこのサイズが無いらしい。昨日の記事の 1929年製 Bentley 6,1/2Litre Speed Six なんぞ、ダンロップが常時在庫を抱えているそうだ。自動車文化の違いに唖然とする。


210型は1958年、Mobilgas Trial (オーストラリア大陸1周ラリー)にて総合24位でゴール、1000cc以下のクラスで見事クラス優勝を果たしている。
http://u14sss22ltd.fc2web.com/combat/210/210main.html

日産車と言えば、かつてはサファリラリーの覇者として有名だった。そのラリーもワークス参加しなくなって随分な年月が経ってしまった。万年3位に納まっている日産の凋落はこの辺にも原因があるのではと考える。

*1:初代日産ブルーバードとトヨタスポーツ800のプロトタイプのデザインで有名。

*2:当時は庶民にとって自家用車は夢であった。会場では新車で買ったというオーナー氏に見物のオジサンが「あんた金持ちだったんでしょう」とやっかみ半分で絡む見苦しい光景が展開していた。自動車生産はトラックやバスが主流であった。乗用車の殆どはタクシーであり、高速道路は無く、穴だらけの国道が酷道と揶揄されるほど舗装が悪く耐久性が重視された。