DB (Deutsch and Bonnet) STORY Part 13


René Bonnet Djet(1963−1964)

 Renaultからのエンジン供給が決まった 1963年、世界初の量産ミドシップ・スポーツカーが誕生した。René Bonnet Djet(ジェット)である。エンジンをリア・アクスル前にマウントするというレイアウトは、戦前の AUTO-UNIONのGPマシンを始めとして、戦前戦後に既にいくつかの例が見られていたが、大胆にも市販スポーツカーにこれを採用したのは Lamborghiniでも LOTUSでもなく、René Bonnet Djetだったのである。まさに技術者 Bonnetの独創と熱意を示したクルマと言えよう。太いチューブのバック・ボーン・フレームをベースに、リアのサブ・フレームに Renaultから供給された4気筒エンジン3種(845cc,956cc,1108cc)を搭載。戦前からFFにこだわっていた Bonnetが30年にも及ぶ長いレース経験から得た結論がミドシップだったのである*1
 足回りは前後共にコイルのダブル・ウィッシュボーン。リアはダブルのコイルとダンパーを持つ。ギアボックスは4段で、エンジンと共に前後逆に搭載された。
 縦に細長い特徴のFRP製軽量ボディは前面投影面積の低下を追求したもので、デザイナーは Marcel Hubert。ル・マン参戦の Alpine M63から M65に至る一連のレーシングカーのデザイナーとして有名な彼だが、おそらく50年代から DBの空力ボディのデザインに関与していると言われている。

 すべての点で、Bonnetの理想を具象化したスポーツカーであった Djetであるが、63年と64年の2年間という短命に終わってしまった。理由は Automobiles René Bonnetの経済的破綻であった。65年に Renaultはエンジン供給を ALPINE一本に絞ることを決断する。Bonnetはクルマを生産する術を失い、財政基盤は失われたのであった。1964年に航空宇宙産業で有名な MATRAに Automobiles René Bonnetは吸収され、MATRAの自動車部門が発足されて Djetは継続販売されることになる。René Bonnetは追放されただけでなく、無残にも裁判所は破産するにあたり今後10年間はクルマの製造販売をしないことを Bonnetに命じたのである。彼の一家は離散し、晩年は寂しいものだったという。

  Bonnet最後のル・マン挑戦は 1964年。より空力を高めたPhilippe Farjon / Serge Lelong組の#52 Aérodjetが総合23位で完走している。


The Société Automobiles René Bonnet #48 Aero Djet as raced to 28th place(Did not finish) at Le Mans 1964 by Cliff Allison - Keith Hall.
Renault-Gordini 4 cyl 1150cc



René Bonnet (1904-1983)

*1:袂を分けた相棒の DeutschはFFにこだわった可能性がある。