DB (Deutsch and Bonnet) STORY Part 12

 ル・マンの栄光の日々と勝利の美酒は続いた。市販車 DB Coachと後継車の‘Le Mans’の販売は順調であり、このままでいけば、ライバルの Alpineのようにスポーツカー・メーカーとして確固たる地位と伝説を確立することが出来たはずだった。
 ところが、思いもかけない破綻は突然やってきた。
 それまで DBが生み出すクルマの設計は、René Bonnetが受け持っており、一方 Charles Deutschは会社の経営を任されていた。しかし、Deutschはフランスの理工系エリート養成のための高等教育機関であるところの École polytechnique出身の技術者であり、次第にクルマの設計そのものに興味を持ち始め、やがて残念なことに2人はその設計思想の違いに関し完全に対立する関係となってしまったのであった。2人の個性のぶつかり合いは、共に妥協し得る性質のものではなく、2人で共同執筆していた日本の漫画家、藤子不二雄のように分裂してしまう。
 1962年、戦前からレースを目指して続けてきた2人の友情と情熱のパートナーシップは終わりを告げた。




RENE BONNET Le Mans(1963-1964)
Renault-Gordini 1108cc 4cyl 75hp Max 165km/h.

Deutschを失った失意の Bonnetは新たな問題に直面することとなる。エンジンの供給先だ。それまで DBの象徴であった空冷水平対向2気筒エンジンは PANHARD製であったが、経営難に喘ぐ PANHARDは 1955年から Citroenの傘下となっており、PANHARDの Citroenに対する影響力は日増しに強くなっていた。しかも当時の Citroenはモーター・スポーツに対し冷淡な社風であり、PANHARDからのエンジン供給が絶たれることは時間の問題であった。そこで Bonnetが注目したのが Renaultの存在である。戦後、Renaultはフランス国内のレーシング・コンストラクターを積極的に援助しており、彼らの活動の大きな支えともなっていた。1962年の1年間だけ Bonnetは PANHARDのエンジンを搭載するクルマを継続して販売したが、1963年に Renaultへ転向した。
 ドゴール大統領による国威高揚政策の一環として、フランス政府は当時国営企業であった Renaultを通じてポテンシャルのあるレーシングカー・コンストラクターにスポンサーシップを与えることを決定した。Renaultが選んだのは Alpineと René Bonnetであった。
 Renaultのバックアップを得た Bonnetがまず市販したのはデタッチャブル・ハードトップの Le Mansであった。前年のパリ・サロンで御披露目されたときは PANHARD製の空冷フラット・ツイン(58hp)が搭載されていたエンジンルームには Gordiniがチューンした Renault 直列4気筒 OHV 1108ccエンジンが搭載された。同時にその廉価版として Renault Dauphineの 845ccエンジンを搭載した Missile(ミサイルの意)も用意された。


1962 DB Le Mans
PANHARD 848cc FLAT-TWIN 58hp/6300rpm.


1962 DB Missile