日産自動車 旧本社ビル

 此れは横濱市認定歴史的建造物である。1934(昭和9)年、ダット自動車を買收した戸畑鑄物の鮎川義介が同年6月には倍額増資して日産自動車と社名を改め、横濱新子安に厖大な工場の建設を始めた。其の時に建てられた本社社屋である。鮎川は此處で小型車ダットサンの量産を本格的に始めると同時に、フォード、シボレー兩車の部品の製造も行つて、將來生産すべき大型車の準備を整へたのである。
 鮎川は日本で本格的な車をつくるのに研究から始めてゐたのではとうてい間に合はないと考へ、米國から專門家を十数人呼び、一方英語のわかる日本人技術者を集めた。そして鍛造、プレス、機械加工、鑄物、ボディの各部門に分かれて、短期間に近代的大量生産技術の習得にかかつたのである。此處で初めてダットサンは近代的な生産ラインを持つことと成つたのだ。
 其れにしても、ダット自動車製造を乘つ取つて設立された日産自動車が、其の65年後に佛蘭西のルノー社に乘つ取られるとは皮肉なことである。


 建物の1階には小さなエンジン博物館がある。

1936 DATSUN Model15 Roadster
テールにランブルシートを備へた此の 2/4坐ロ一ドスターは當時の若者の夢だつた。然し、其の4年後の1939(昭和14)年8月1日に精神總動員委員會は、「ぜい度くは敵だ」と云ふスローガンを掲げ、青年の夢は封印される事と成る。
 エンジンは34年型までがSV 747cc 12PS、35年と36年前期が 722cc 15PSである。此の展示車輛は 36年前期型だが、34年型はライトが 33年型と同じ平面硝子で、左右のライトがバーで結ばれ、ハブキャップも 33年型と同一である點が異なる。實際には 34年型は極く少數が生産されたにすぎない。



Type7 ENGINE
 7型は日産自動車が乘つ取つたダット自動車製造が1929〜1931年に小型車 DAT91型用に開發した直列4氣筒 SV 495ccのエンジンの改良型である。1935年に排氣量を 722ccに擴大したもので、ダットサン14型に搭載された。驚くべきことに戰後も生き殘り(正しくは技術力がなかつたと云ふべきであらう)1950年に 860ccに擴大し D10型と成り、1963年まで生産された。




GRX-Ⅱ
 60度V12氣筒 DOHC 4Valve 5954cc。プロトタイプ・レース專用として開發された。此れを搭載した R382が 1969年の日本グランプリで優勝してゐる。
 



W64
 1967年に宮内廳に納入された國産御料車第1號ニッサン・プリンス・ロイヤルに搭載されたエンジンである。正に此の特別なクルマのために開發されたもので、90度V8氣筒 6373ccと云ふことのみが公表され、其のクルマの性格上、出力等のスペックは公表されてゐない。惜しくも現役を引退し、いまでは暴力團の組長も乘る三河製センチュリーにとつて變はつた事は誠に歎かはしい事である。


駐車場にも昔の榮光の日産車が停まつてゐた。




工場を出ると、嘗ての勞働者が九駄を卷いた飮み屋の廢屋が竝んでゐた。



どことなく侘しい風情が漂ふ、横濱は新子安の風景である。