1965 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 5

 軽量の Chaparralは特にワイドなタイアを履いていたため、豪雨ではまったく走らなくなった。新型の Firestone製レイン・タイアは立ちはだかる雨水に対しほとんど無力だったのだ。午後 5:50、#3 Chaparralはピットインし、嵐が去ることを待つことにした。公式のタイム・チャートによれば、その時間は 15分にもおよんだ。

 他の Chaparralも嵐の最中は酷いスピンに悩まされたたため、同様にピットインして天候が好転することを待つこととなった。その後、高電圧のレギュレーターに故障を抱え、これの修理のために40分もの時間をロスすることとなる。

 レースが残り3時間となった頃に雨は小ぶりとなり、やがてやんだ。水浸しとなっていたコースは、すぐに吸水性の高い南フロリダの砂に染み込み、乾いてしまった。Hall/Sharp組の Chaparralは思いっきり飛ばしに飛ばし、2位の Miles/McLaren組の Ford GTに対し未だリードを続けていた。



 観客たちは、もうレースは十分と思っていた。 Chaparralがトップを走り続けていたからではない。多くのレース・ファンの衣服はずぶ濡れで泥に汚れ、おまけに気温が上がってきていた。レース見物どころではない、早くホテルや家に帰って熱いシャワーを浴びてサッパリしたい、というのが本音だった。午後7時、多くの観客はヘッドライトを点灯し、サーキットを後にした。

 当時、Sebringに来ていたレース・ファンの一部は御洒落して観戦していた。男はスポーツ・ジャケットにタイ。女性はドレスにヒールが基本だ。しかし大多数の観衆はカジュアルだった。男はスポーツ・シャツ。女性はストレッチ・パンツにシルクのブラウスというのが多かった。婦人雑誌の記者達は流行の最先端の取材でサーキットに詰め掛けていた。大衆の中でも、特にパームビーチの連中は、海外のプレスが詰めかける国際レースには、良く見えるように念入りに着飾っていた。レース・プロモーターの Alec Ulmannや、チーム・オーナーの John Mecomなどは注目されるファッション・リーダーだった。

 その着飾っていた連中に嵐が直撃した。大切な服はビショビショに濡れ、雨水はくるぶしまで上がり、パンツもずぶ濡れとなった。せっかく、この日のために買った靴とドレスとパンツは台無しとなった。傘は強風で無意味となり、レインコートを着てもフロリダの気温と湿度の高さで、大事な服が汗びっしょりとなるまでの時間はそうかからなかった。クルマの中に逃げ込む手もあったが、気温 30度を超える暑い日にクルマの窓を閉めている者は誰もいなかったため、着替えの適切な場所とはならなかったのだ。

 レース開始9時間目、133周をこなした Graham Hill/Pedro Rodriguez組の Ferrari 330Pはクラッチのトラブルに見舞われた。彼らは3位を走っていたのだが、最終的にリタイアとなった。その時点でギアボックスには2個のギアしか残されていなかった。これにより#31 Ferrari 250 LMの David Piper/Tony Maggs組が順位を上げた。

 そして午後10時にチェッカーフラッグが振られ、Jim Hall/Hap Sharp組の Chaparralが 197ラップ、総走行距離 1630.72km 平均速度 135.5km/hで完走して1位となった。彼らは招待参加だったので正式な記録とはならないし、豪雨の中でレースを続けたことに疑問を持つ人もいる。2位は4周遅れで Miles/McLaren組の Ford GT。レース終了後に Milesと McLarenが漏らしているのだが、彼らはレース中に Chaparralを抜いてレースをリードしたいと Carroll Shelbyに訴えたが、Shelbyがそれを許さなかったというのだ。記者が彼にその理由を尋ねたところ「我々は完走しないことよりも、2位になることを選んだのだ」と答えている。ブリティッシュ・レーシング・グリーンに塗られた Ferrari 250 LMの David Piper/Tony Maggs組は3位となったがクラス優勝となった。4位だがGTクラスの1位となったのが #15 Daytona Coupeの Bob Bondurant/Jo Schlesser組だ。

 このレース結果は多くの人たちに幸運を運ぶこととなった。まずはJim Hall/Hap Sharp組だ。ひどい熱に記録的な嵐、そして悪名高いラフなコースであるにもかかわらず、彼らのマシンは総走行距離を伸ばすことができることを証明した。Chaparralに負けたことは事実であるにもかかわらず、Carroll Shelbyは幸せだった。Shelby Americanチームの FORD GTは2位であったが、プロタイプ・クラスでは1位と2位を占めることとなったからだ。また Shelby Cobra Daytona Coupeは GTクラスで1位から3位を独占した。

 Porscheのファンも大喜びだった。4台参戦した内の3台が10位までの入賞となり、小排気量にもかかわらず善戦したのである。記者達は、今後 Porscheが Ford やFerrari、Chaparralといった強豪と渡り合える穴馬になるであろうと予測した。

 アメリカのレース・ファンは間違いなく大喜びしていた。クルマもドライバーもすべてアメリカ製のマシンが強敵の欧州勢を打ち破り、しかも全米一ラフな路面の難しいサーキットで最悪の天候にもかかわらず優勝できたのだ。アメリカ製マシンでアメリカ人ドライバーが優勝した国際レースは、1921年のフランスGPで Duesenbergが優勝して以来の快挙であった。

 1965年、この年は Chaparralが最も成功した年となった。22のレースに参戦し、16勝を挙げている。Daytona, Sebringでの貴重な経験を元に、FORDは翌年に念願のル・マン24時間で1位から3位までを独占するという快挙につなげていった。

 Carroll Shelbyと彼の Shelby Americanチームにとっても 1965年は素晴らしいものとなった。Cobra Daytona Coupeは11戦中8戦でGTクラスの優勝車となり、World Manufacturer’s ChampionshipにおいてGTクラスの世界チャンピオンとなった唯一の米国車となった。この年の終わりにFIAは Daytona Coupeを時代遅れのものとして葬るためにレギュレーションを変更している。

 このレースで優勝した Chaparralはクーペ・ボディに改造され、その後のレースに出場することとなる。

 何十年もの間、ヨーロッパのマシンがスポーツカー・レースや耐久レースを支配してきたが、60年代の短い期間ではあったが、アメリカ製のマシンがレースを征する瞬間があったのである。