日産とプリンス 合併の裏で。。。Part1
昨日書いた富士重工もそうだが、プリンス自動車工業も「技術あって経営なし」の企業であったことは事実だ。モータリゼーションの息吹がこれから本格的に芽生えようとしていた60年代初頭の日本にあって、そのラインナップに小型大衆車が無いというバランスを欠いていた。常日頃、「ピラミッド理論」によって底辺から顧客をつかみ、その後に高価格車にステップアップしてもらおうとした東洋工業の2代目社長である松田恒次のような経営センスを持った者は、プリンスにはいなかった。日本では元が飛行機屋であった自動車メーカーは、生産コストを度外視した技術偏重に陥りがちだったようである。同じく飛行機屋であったBMWが、1950年代末に深刻な経営危機にあったときに、小型大衆車の700を販売して業績挽回をしたのとは対照的であったと言えよう。
1965年6月1日の朝刊に踊った見出しに、今と違って自動車に関心が高かった日本の読者は驚いた。日産とプリンスとの合併が数段抜きの大きな活字で発表されていたからである。
両社の合併発表は前日の5月31日午後3時、大手町のパレスホテルで行われた。日産社長の川又克二とプリンス自動車社長の小川秀彦が、翌年末までに、両者が合併するとの覚書に調印したのであった。そのあと同ホテルで、両社長に、プリンス自動車会長の石橋正二郎が加わり記者会見が行われた。その席上、合併比率は日産1対プリンス2、合併にさいしては、プリンス社名の継承、代理店・協力工場の商標の尊重、合併に伴う混乱の回避など、具体的な問題についても協調されていると発表された。調印にさいしては、通産大臣の桜内義雄、興銀頭取の中山素平、住友銀行頭取の堀田庄三の3人が立ちあった。
当然のことだが、この日、プリンスで働く者たちに動揺が広がった。彼らは合併に関し、何も聞かされていなかったのだ。
しかし、トヨタの首脳部は、合併のニュースに驚かなかった。端的にいって、プリンスとの合併話は日産よりも3ヶ月早く、通産省から持ちかけられていたからである。もちろん問題は重大であり、トヨタ側は、トヨタ自動車工業会長の石田退三、同社長の中川不器男、同副社長の豊田英二、それに、トヨタ自動車販売社長の神谷正太郎の4人が慎重に協議した。その結果トヨタは断ったのであった。
トヨタの次に話が持ちかけられたのは、当然のことながら業界ナンバー2であった日産であった。
合併発表の直後、神谷正太郎は、
「予想はしていた。しかし、こんなに早く調印までもちはこばれるとは思わなかった。業界再編成到来の厳しさを、あらためて痛感している」と語っている。
製造側であるトヨタ自動車工業の3人と、販売側の神谷正太郎とは意見が異なったようである。最終的には、プリンスの経営内容に疑問を感じた石田退三会長の合併反対の強硬意見に対し、製造側の3人は、賛成せざるを得なかったということらしい。
日産とプリンスの合併ニュースは、欧米でもセンセーショナルに報道されたという。60年代に入って急速な進歩を遂げた日本の自動車産業。日産はVWに肉迫する生産台数となっていたからだ。
この項つづく。