富士重工の悲哀

 富士重工は長年、「技術あって経営なし」と言われた企業だった。戦時中は中島飛行機として軍の支配下にあって自由なことはできなかった。戦後は、支配者が興銀*1に変わっただけである。その後は日産と興銀の政争の場と長年されてきた。自動車の事を何も知らない興銀の関係者が社長のあと、日産からは日産ディーゼルからの出向による商用車しか知らない人間が社長に。。。GMに売却された後に、現在、トヨタと提携関係になっている。GM以降、やっと御主人様がクルマを理解している者となったのである。

 スバル360は富士重工が初めて世に送り出したクルマであったが、その前に試作車でスバル1500という幻のクルマがあった。モノコックボディなどの先進的な技術を盛り込んだクルマで、世に送り出されていれば間違いなく、クラウンやセドリックも苦戦するだろうとも言われていた。そのクルマを握りつぶしたのが興銀である。その理由は、興銀が当時、通産省と並んで興銀自動車ビジョンというものを描き、日産を中心として富士重工いすゞを加え、トヨタに対抗する一大勢力を作ろうという構想を練っていたからだ。スバル1500はその構想から外れているということで、極めて官僚的な都合で潰されたのである。
 最近ではスバル製のトヨタ86の例が象徴するように、富士重工は自主的にクルマを開発して世に問うたことが少ないと言い切る人もいるほどだ。同じく技術を重んじる企業としてのホンダとは大きな違いがある。なんだかんだ言っても、自分たちの作りたいものを作ってきた社風(最近はトヨタ化しているのかもしれないが)がある。
 しかし、富士重工はそうではなかった。クルマが大好きな本田宗一郎のようなトップはいなかった。長い間、自動車のなんたるかを知らない人間がトップに天下って座ってきたのである。技術のレベルから言えば、スバルはホンダと同格の自動車メーカーに成れたはずだ。しかし、ここまで差が開いてしまったのは、ひとえに経営者の責任ということだろう。
 富士重工には、旧郵政省から送り込まれた社長などという者もいた。
 1963年、当時「技術あって経営なし」と言われた厄介者の富士重工を抱えていた興銀は、どこか買い手がいないか探していた。興銀というところは、会社を育ててやろうというのではなく、業界を大切にする天下国家の思想をもとに、買い手探しに翻弄することからスタートしたのだ。
 誰を社長に推すかとなったときに、当時、興銀の頭取であった中山素平が、郵政省から天下りして電電公社(現NTT)の副総裁となっていた横田信夫という男に目をつけた。その理由とは。。。
 当時、スバル360を製造していた富士重工にとって、電電公社というのは360の最大の御得意さんであった。しかも横田は電電公社の人事で浮いているという状態であった。それであれば、横田を社長にもってくれば電電公社との関係も密になって、軽自動車の販路拡大にも有効だと睨んだのであった。。。
 ただし、郵政省出身の横田だけでは心もとないと、お目付け役に興銀から大原栄一という男を送り込んだ。ところが驚いたことに、大原は興銀を辞めずに富士重工へ天下ってきたのである。興銀の役員が富士重工の副社長も務めていたのだ。当然のことながら給料は興銀と富士重工から二重に支給された身分であった。大原が興銀を辞めたのは1970年に富士重工の社長に就任してから2〜3年後で、実に10年もの長きにわたって興銀役員と富士重工の役員を兼務していたのである。
 そういう酷い状態で大原時代が過ぎ、次に日産から佐々木定道という人物が送り込まれてきた。この男は、当時の日産の社長であった石原俊のライバルであり、日産との協調などがうまくいくわけがなかった。その後任に、再び興銀から田島敏弘が天下ってくる。彼は興銀の副頭取までいった男なのだが、カメラと自動車が好きなだけで、富士重工の経営再建などできるわけはなかった。。。案の定、後任には日産から河合勇が送り込まれている。
 その後は、皆さんも知っての通り、スバルはトヨタの軍門に下ることとなった。
 もし、富士重工が御主人の顔色を伺うことなく、のびのびとクルマ作りを行っていたなら、ホンダを脅かす存在になったのではないだろうか?
 

*1:現、みずほ銀行みずほコーポレート銀行の前身。中島飛行機時代から融資していた。