スカイラインとともに 櫻井眞一郎

先月、他界された櫻井眞一郎の著書を読むことができた。
スカイライン”という日本ではファナティックな人気があるクルマの開発に、1957年の初代から1985年の7代目まで関わった設計者自身の手記だ。
著書を読み進むと、自分が描いていた櫻井眞一郎像とは、かなりかけ離れた人物像が浮かび上がってきた。


60年代の日本GPに挑戦していた櫻井氏のことだから、当然のことながらレースに関しては相当な想いがあったのだろうと勝手にイメージしていたが、彼自身はレースそのものには興味が無かったようだ。
プリンス自動車時代の60年代初頭に、上司であり、戦前の航空エンジンの名機とされている“誉”の設計主任者であった中川良一氏とヨーロッパ旅行に出かけた際にスパ・フランコルシャンにてF1GPを見学したのだが、興奮していた中川氏と正反対で「レースには関心がなかった」と記している。日産時代には「F1は市販車に還元できる技術が何もない」と発言した事もあるらしい。

レースはドライバーのテクニックでカバーされる面があるし、相手のトラブルといった運もある。時と場合によってはマシンの性能以外の要素で結果が左右されてしまう。だから、レースそのものにはあまり面白みを感じなかった
スカイラインとともに』より

これは自分にとって意外であり、残念な発言だ。

彼はどことなく仕事として割り切って参加していたのか、F1に挑んだホンダの中村良夫さんとは180度違う技術者なのではないか、と自分は思うようになってしまった。実際、中村氏ならF1ドライバーの人間性やチーム同士の敵味方を超えた友情などをその著書に記しているが、櫻井氏は彼が設計したマシンを操ったドライバーのことは微塵も描いていないのだ。この差は何なのだろうか?

そうなると、いろいろケチをつけたくなるものだ。
たとえば、櫻井氏は直列6気筒を無理やり押し込んだ2代目スカイラインがプライベート参加のポルシェ904にあっさり負けたことをバネに、R380を開発して見事にポルシェ906に勝って見せたが、その相手がワークスではなくプライベートのタキ・レーシングだったことは一行も書いていないことも、不公正ではないだろうか。

また経営に損失を与えた“オーテック・ステルビオ”に関してはさらりと書き記している。

 かくして、私はオーテック・ジャパンで、自分が望む通りの自動車づくりができることになった。しかし、ゼロから自動車づくりをやったら、えらく高くついてしまう。私は日産のラインに流れる車を途中から引き抜いて、可能な限り部品を共通にして、別のクルマに作り変えることを考えた。
 オーテック・ジャパンの「ステルビオ」が、こうして誕生した。

わずか4行で終った「ステルビオ」の話だが、亡くなる前に是非、ザガートに委託した経緯や、あの特殊なフェンダー一体ミラーを望んだ理由……などなど、オーテックの社史に汚点を残したステルビオの真相を語って欲しかったと思うのだ。