CG CLUB関東イベント 「Super TTD in ZAMA」  Old DATSUN

ダットサン誕生と日産創業者の鮎川義介による乗っ取り

 “ダットサン”といえば、かつてトヨタの“トヨペット”に対抗する小型車としてニッサンを指すほど一般化されたブランド名だった。北米市場では“NISSAN”よりも“DATSUN”というブランド名の方が浸透していた(後述)。
 この名前の由来は、1914(大正3)年に改進社が最初の自動車を完成したときにさかのぼる。橋本増次郎氏を助けて工場の基礎を築いた九州炭坑の相談役、田健次郎のD、橋本氏の幼少時代からの友人青山緑郎氏のA、九州炭坑顧問の土佐の竹内綱氏の息子で資金援助をした竹内明太郎氏(吉田茂の従兄)のTと、3人のイニシャルからとっている。古い言葉で「脱兎のごとく…」というのがあり、DATをこの脱兎にかけたのだ。そして当時実際車名に「脱免」という字を使ったこともあったのだが、欧米文化に習い DATに戻したという。1930(昭和5)年に小型車が誕生したとき DATの息子だという意味で後尾に SONを付けて DATSON としたのであった。ところが 1931(昭和6)年に東京の銀座に吉崎良造氏の販売店ができるころから SONは損に通じるといい出す者がでてくる。同年の試作車を見た戸畑鋳物(株)の鮎川義介で、早速株を買い占めて自分の会社にしてしまい、現在の日産自動車の前身、自動車製造会社となる。同社が東京越中島戸畑鋳物東京工場でダットサンの生産を始めようとした 1933(昭和8)年、台風のため工場は天井まで浸水してしまった。縁起をかついだ人々は「それみたことか」となり、とうとう SONは大陽の SUNに改められ DATSUNとなったといわれている。翌 1934年5月の第1回株主総会で社名を「日産自動車株式会社」と変更し現在に至る。日産の意味は、社長に就任した鮎川義介日本産業株式会社という所謂「日産コンツェルン」の総帥、その傘下の企業だったことに由来する。鮎川は悪名高い関東軍の支援により、満州帝国に進出して儲けたことは有名な話だ。
 1960年9月、アメリカ日産が設立され、片山豊氏が精力的に営業展開し後年社長に就任する。北米では日産車はすべて DATSUNブランドで販売された。ところが 1977年、当時の日産本社石原俊社長が何を狂ったのか、DATSUNの名称が日産の世界制覇の妨げになると考え、1980年に DATSUNの名称を完全に廃止する。それに反発した片山氏は社長の職を辞している。
 DATSUNブランドを廃止、世界制覇に取り組んだつもりの日産が、ホンダの後塵を拝し、経営危機のため Renault支配下に置かれたのは周知の事実である。





1935 DATSUN Type14 Roadster
直列4気筒 SV 722cc 15ps/3600rpm
1932(昭和7)年、無試験免許の枠が750cc にまで拡大されたのを機に、500cc のダットサンは 747ccにエンジン排気量を拡大した。同年の法規改正で、乗員定員の制限がなくなり、ドライバーの他に乗客を乗せることが許されたのでダットサンの実用性は俄然高まったのである。同時にステアリングは、すべて右側に改められた。アクセルが真ん中にあることに注意。テールにランブルシートを備えた、この2/4 座ロ一ドスターは当時のモダンボーイの夢だった。ラジエターに 1933年型 FORDを模倣したハート型グリルがついている。





1938 DATSUN Type17 Phaeton
直列4気筒 SV 722cc 16ps/3600rpm
1938年型はグリルの中央に太いラインが入り、その上にエンブレムがついた。その他の点では 1937年型と全く変らない。戦前、教習所へ行けば必らずあったのがこのフェートンで、小さいくせに馬鹿に重く、その上切れば切れっぱなしで戻らないハンドルや、カラカラと特徴的な音をたてるUジョイントの響きが教習所に響き渡っていたという。これもアクセルが真ん中にある。
フェートンとは、20世紀前半のオープン・スタイルの主流であった一形式を指す。折りたたみ式の幌を備えた乗用車で、おもに2列4人乗以上の4ドア幌付オープンカーに対する名称である。