1937, ニッサン 70型 デラックス セダン


颯爽と自動車を箱根まで運転するモダンガール。中国との戦争は泥沼化の様相を呈していた時代、ガソリンは配給制となり一部の富裕層もクルマどころではなかったはず。この3年後には「日本人なら贅沢は出来ない筈だ」などという恐ろしいスローガンも現れる始末。自動車乗るは非国民でござい。
道路のほとんどは舗装されず、砂利が敷いてあれば良い方で、雨が降れば泥だらけの劣悪な状況は1960年代まで続いておりました。


動画に出てきたニッサン車はこれ↓

ニッサン デラックス セダン(1937-1940)
1937年4月から、米国 Graham 社の遊休設備を横浜へ移転して、同社の1935年型をニッサン70型及び73型の名で生産したもの。工作機械もプレス型もすべて米国から買って来たもの。
エンジンは6気筒サイドバルブ3670cc 圧縮比5.7 80HP/3400rpm、3速ギヤボックス、ホイールベース2794mm の5人乗りセダン。

1936(昭和11)年5月、日本政府は自動車製造事業法という法律を公布した。その要旨は、年産3000台以上の自動車メーカーを許可制とすること、許可会社の議決権は半数以上日本人の手になければならないこと、許可会社は国防上、政府の監督を受けなければならないことなどである。この法律による最初の許可会社として同年9月、日産とトヨタが指定された。同法の裏の目的は、日本に確たる地位を占めている日本フォードとGMを締め出すことにあったのはいうまでもない。
同法によって、日本フォードは12,360台、GMは9,470台と年間組立台数を限定されてしまったのである。日本フォードはあくまで強腰で、米国フォード社は決して日本における権益を放棄しない旨の強硬な声明を発表したが、一方GMの方は柔軟な対応を見せた。日産コンツェルン鮎川義介は日本GMとの提携によって、急速に日本に自動車工業を確立しようとして交渉を重ね、妥結寸前までこぎつけたが軍部の横やりによつて失敗に終つた。
しかし事業法が日産とトヨタを対象につくられたものだけに、日産としても急速に設備及び技術の態勢を整えねばならない。いろいろ調査している中に、アメリカの二流メーカー、Graham 社との交渉に成功した。この結果、日産はグラハムの遊休設備を買収し、設計製作の両面で技術援助を受けることになり、横浜新小安に新工場が建設された。1937(昭和12)年4月から生産開始したニッサン70型乗用車は、実は1935 年型グラハム・ペイジのフルコピーにすぎない。いまの中国を笑えない歴史が日産にはあったのだ。6気筒サイドバルブ3670cc80ps/3400rpm、ホイールベース2794mm の5人乗りで、最初はセダンだけだったが、後に主として軍用にフェートンも少数生産されている。