CLUB ZAGATO GIPPONE 2010 その2 ZAGATO HISTORY & JAPANESE BIZARRE CAR


Ugo Zagato (1890 - 1968)

CARグラフィック1967年10月号の記事によれば、ミラノのカロッツェリア・ザガートの創立者ウーゴ・ザガート。Venezia 生まれの精力的な職工であった彼が、長年にわたる経験をもとに自分の工場をもったのは1919年であった。第1次世界大戦前ドイツのコーチワーカー、Varesina に働いていた彼は、第1次大戦中に新兵器となった航空機の製作に携わり、その機体設計から数々の知識を吸収した。その中でも最も重要なものは、ザガートの作品を貫いてきた“軽さ” への飽くなき追求であった。彼が自ら製作した最初のボディは FIAT 501 に袈装されたが、それはウッド・フレームにリベットで組んだアルミ・パネルを張るという当時の航空機そのままの製造方法であった。その後ザガートはオール・スチール・ボディに転向したが、しかし片時として航空機で学んだ技術から離れたことはなかった。



Alfa Romeo 6C 1500 SS”

1928年,アルファ・ロメオは 6C1500 を完成すると、そのボディをトゥーリングとザガートに依頼したが、中でもザガートが架装した6C1500SSは、古い重々しいボディが全盛の当時、明快な軽やかさを強調したスパイターで好評を博した。1928年の第2回ミッレ・ミリアには実に28台のザガート・ボディの6C1500SSが参加、1台は優勝をとげてコンぺティション・コーチビルダーとしてのザガートの名声を高めた。




Alfa Romeo 6C 1750 Gran Sport”



Alfa Romeo 8C 2300 Spider Corsa”

さらに1929年に 6C 1750 GS、1931年に 8C 2300 SC が生まれるに及んで、ザガートの名声は決定的となった。第2次大戦中、Isotta-Fraschini 製のトラックのキャビンなどの生産に従事したザガートは、戦争が終わるとスポーツカーのコーチワークだけに専念することを決意し、まずアルミニウムできわめて軽い Panoramica を製作した。ふたたびアルミに戻ったザガートは、それを利用して軽い空力ボディを次々と世に送り、ザガートといえば即座にアルミ、軽さ、空力ボディが連想されるほどになった。
戦後のザガートの成功はウーゴの2人の息子、Elio と Gianni に負うところも大きかった。特に長男のエリオはかつてレーシング・ドライバーとしても活躍したことがあるが、それは彼自身の情熱を満たしただけではなかった。彼はよく「コーチビルダーがレースをすれば、工場の中で何年かかっても学べないことを体得できる」と述べている。ザガートのボディが他のカロッツェリア作品よりもはるかにレースに強かったは、ザガートに息子エリオがいたからだとも言える。
60年代に入り、ザガートは魅力的なクルマを次々に世に送り出し、全盛期を迎えることになる。それにはチーフ・デザイナーの Ercole Spada が在籍していたことが大きかった。彼はアルファ・ロメオSZやTZ、ランチアの一連のスポルト・シリーズに於いて数々の傑作を世に送り出した功労者だった。ところが彼は69年を最後にザガートを退社してしまう。

その後のザガートはデザインは勿論のこと、経営的にも長期の低迷を続けた。
1986年の Aston Martin V8 Zagato の後の自社工場における生産車両は決まっていなかった。


Aston Martin V8 Zagato

その同じ年に泡沫経済景気を迎えていた日本の日産自動車は少量生産の高級車と特装車を生産販売する“オーテック・ジャパン”を100%出資して設立した。その際“ザガートジャパン”の代表であった藤田尚三氏が仲介となって“ステルビオ”の計画が立ちあがった。ザガートにとっては渡りに船、藁にも縋る思いだったに違いない。


1991年の雑誌“SUPER CG”に掲載されたザガートジャパンの広告である。この当時アパレルも展開していて、老舗デパートの伊勢丹にて「ザガート」名にて販売していた。広告のコピー曰く“ザガートを着る。エンスーという審美眼をメインカテゴリーに、ザガートを、いま、街で着る。イタリアの名門カーデザイン工房の目と手が、凛凛しく作り上げる、メンズ・ファッションの世界「ザガート」。その伊達は、いま「ステルビオ」と交流し、コレクションが伊勢丹で刺激する”
エンスーという死語も懐かしい。いま読むと、ちと恥ずかしい若かりし頃の自分を思い出してしまう。


さてステルビオだが、ボディの内外装はザガートが担当、ベースとなる日産レパードのチューニングはオーテックが担当することとなった。
ステルビオのデザインの特徴は賛否両論に分かれるフェンダーと一体式のサイドミラーである。


これはオーテックの桜井社長による強い要望であったようだ。いろいろご意見はあるだろうが、このアクの強いフロントの印象こそがステルビオのデザインの肝だと思う。高速道路で肉薄されれば道を開けざるを得ない強烈な印象を放っている。


ところが、このサイド・ビューはどうだろう?
日産レパードがベースなので仕方がない部分もあるのだろうが、どうにもバランスが悪い印象だ。特に妙に大型のグリーン・ハウスは Panoramica に通じるひょうきんなものとなっている。

とかくステルビオは日産車ベースなのに1870万円というフェラーリ並みの価格が取り沙汰されたが、ボディをミラノのザガートに送り、1台づつアルミのボディ(ボンネットとバンパーはカーボンファイバー製)を手作りでザガートが内外装を仕上げ、納車には1年かかったことを考えれば、ある意味安いとも言えよう。
結局ステルビオは泡沫経済の終焉とともに僅か110台で生産は終了、ザガートとオーテックの関係も破棄された。桜井社長は事実上、その責任を負いオーテックジャパンを退社したものと思われる。
その後のオーテックは、日産車に醜いエアロパーツや大げさなメッキグリルをつけたクルマ(ハイウェイスターとかライダー)の製作に従事、日本のホストクラブとヤンキー文化に貢献している。
そして、その後のザガートはまさに「変なクルマ」へとまっしぐらに突き進み今日に至る。最近SZの復刻版を出したが、過去の栄光にすがるしかもう道はないのであろうか……。


会場には“ZAGATO GAVIA”も展示されていた。

これは中身はステルビオと同じものだが、オーテックとの関係が切れたザガートがステルビオの余ったシャシーを使い生産したものだ。30台限定で880万円のバーゲンプライスである。デザインはステルビオと比べおとなしい極々常識的なものとなっている。

今回のステルビオの記事に関しては、このクルマのオーナー氏が作成したと思われるHPを参考にさせてもらった。相当に濃い内容なので是非ご覧になって頂きたい。
http://park3.wakwak.com/~haizuri/sub1-index.html


【会場にいた他のザガート製日本車】


“SUZUKI VITARA-Z”
スズキのエスクードの輸出仕様。これにもザガート仕様があるとは知らなかった。



“TMI・VM180ザガート”
トヨタMR-Sがベース。価格は398〜450万円と高価なものだ。
このオーナー氏によるザガートの評価がなかなか興味深い。ちなみにトヨタブレイドというクルマも所有されていらっしゃるそうだ。
http://minkara.carview.co.jp/userid/315991/blog/20416713/