日産とプリンス 合併の裏で。。。Part4 プリンスの合併に積極的だったメインバンク住友銀行

 合併発表当時、プリンス自動車の資本金は120億1,500万円で、総株式2億4,030万株であった。このうち、石橋正二郎の石橋産業の持ち株は4,800万株で、総数の2割を占め、2位の日興証券の1,248万株の4倍近い、圧倒的な大株主であった。その石橋が、合併に積極的に動いたうえに、メインバンクである住友銀行も、積極的な態度を示したのであった。このことにより、合併はなかば達成されたも同然であった。
 住友銀行とプリンスの関係は、1959年11月、住友銀行専務の小川秀彦が、プリンス自動車販売会社の社長に送り込まれてきたときから表面化してきた。それが1963年8月、小川が販売会社の会長と同時に、プリンス自動車の社長に就任、住友銀行の実質的な支配が濃厚となったのである。当初、住友銀行が小川をプリンスに送り込んだときは、これを契機に、両者の関係を深くしようといった積極的なものはなかった。退職専務に、第2の勤め先を見つけさせた好意以上のものはなかったのである。当時は都市銀行の中でも、融資については慎重で厳格であった住友銀行である*1。それだけに、プリンス自動車の内容、将来性といったものを、検討していたのであった。
 しかし、小川の心境は別のところにあった。1901年2月生まれの彼は、1924年、東京商大(現一橋大)を卒業、ただちに住友銀行に入行、専務まで出世して、プリンスに転身したのである。当時、住友銀行頭取の堀田庄三とは、住友銀行員としては小川の方が2年先輩である。それだけに、小川は気負ったともいえる。前歴と若干の見栄もあって、住友銀行との関係を深めたということのようだ。
 石橋とは、小川が住友銀行久留米支店長時代、親交を結んだことがあり、石橋のたっての願いにより、社長に迎えられたという経緯もあった。それだけに小川は、新職場であるプリンス側に立って奮闘したのだった。また、それゆえに、合併直前まで、社長の椅子に固執できたともいわれている。

この項つづく。

*1:後に80年代バブル経済の頃の磯田頭取時代は、暴力団を使った地上げと不正融資で有名となった。