2013-01-01から1年間の記事一覧

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part13 プリンス販売店の悲喜劇

さて、従業員の場合、被合併当初、心配したのは、合併に伴う解雇である。しかし、おりからの自動車業界の好景気で、労働力が不足傾向にあったので、杞憂に終わった。むしろプリンスから、日産の社員になることで、一種の誇りすら感じたようだ。しかしながら…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part12 外山副社長の悲哀

人事の差別はしない、と明言した日産川又社長であるが、実際は明確な人事差別が行われたのは事実である。 その悲劇を象徴するのが外山保だ。 外山は1909(明治42)年4月生まれ。1930(昭和5)年、東京高等工芸(現千葉大学工学部)の精密機械科を卒業、プリンス…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part11 人事の差別はしないはずだったが。。。

日産とプリンスの合併の際、儀礼的であったかとも思われるが、石橋正二郎は、合併後の日産自動車の会長就任を要望された。しかし断った。その理由として、石橋は次のように語っている。 「私は目立つことが嫌いだ。今後は人事について相談にのる程度で、その…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part10 合併の秘密を守り抜いた秘策

日産とプリンスの合併問題は、両社の幹部でも、現実に調印、発表されるまで、外部にはもちろんのこと、内部にも秘密が漏れることはなかった。当時、外国メーカー参入の自由化問題を控えて、経済担当の新聞記者はネタ探しに駆け回っていた。もし、この秘密が…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part9 顔面蒼白の役員たち

日産とプリンス合併の推進者であり、世間から持ち株をうまく売り抜いたと評されていたブリジストンの石橋正二郎も、プリンスを手放すことには相当に悩んだようだ。 石橋は当時の心境を、つぎのように語っている。 「プリンスの経営をやって10年以上を経過、…

亀有、今年最初のレース、タルガフローリオ

今年、最初のレースは、亀有でのレース、デビュー・ウィンのSキさんのカレラ6。250GTOは、実車同様のフロント・モーターにもかかわらず健闘しました。チーム・Nムラの自分は予想通り予選落ちでした(^^; SCXのMG-A。塗り替えてます。 新メーカーのSRC。スペイ…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part8 異例の合併比率変更

プリンスの経営内容が予想外に悪いことを知った日産の川又社長が、どんなに慌てふためいたかは、合併比率の急遽変更という措置に、端的に現れている。 当初、合併比率は1対2と、それがほとんど決定的のように伝えられた。事実、この種の合併発表に際し、合…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part7 質より量を選んだ川又克二

日産の川又克二社長は、質より量をとった。 川又は、プリンスの話に乗る3年前、軽自動車コニーの愛知機械を引き受け、その経営再建に努力、成功させた経験がある。同じ興銀出身の小田邦美が経営に失敗したのを尻拭いしたのである。その経験による自信も手伝…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part6 プリンス自販の酷い内容を見抜いていたトヨタ

桜内通産大臣は、プリンスの合併先として最初にトヨタを選んだが、断られてしまった。しかし、それで断念せず、日産自動車との合併を画策する。そのターゲットは社長の川又克二自身であった。そこで順序として、桜内はまず、興銀頭取の中山素平を訪ねた。興…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part5 東洋工業との合併話

住友銀行は、プリンスの内容を調査、現状はとにかく、近い将来に貿易の自由化が行われ、資本自由化の黒船が到来したときの状態を研究分析した。その結果は、独立困難というものであった。そこで、合併の数年前、同じ住友銀行系の東洋工業(現マツダ)とプリン…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part4 プリンスの合併に積極的だったメインバンク住友銀行

合併発表当時、プリンス自動車の資本金は120億1,500万円で、総株式2億4,030万株であった。このうち、石橋正二郎の石橋産業の持ち株は4,800万株で、総数の2割を占め、2位の日興証券の1,248万株の4倍近い、圧倒的な大株主であった。その石橋が、合併に積極…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑

日産との合併に関し、プリンス自動車会長である石橋正二郎の心境は複雑なものがあった。プリンスを手放すことは、事実上国家の要請である。しかし自らが育てた企業だけに、資本家・経営者としての執念があった。石橋が九州からはじめて上京した若かりし頃(大…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part2

日産とプリンス合併を主導したのは通産省であった。当時の通産大臣は、自民党の河野一郎*1派を背景とする桜内義雄であり、次官は佐橋滋であった。通産省のスポークスマン的存在であり、「ミスター通産省」と呼ばれていたほどの男だ。城山三郎の『官僚たちの…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part1

昨日書いた富士重工もそうだが、プリンス自動車工業も「技術あって経営なし」の企業であったことは事実だ。モータリゼーションの息吹がこれから本格的に芽生えようとしていた60年代初頭の日本にあって、そのラインナップに小型大衆車が無いというバランスを…

富士重工の悲哀

富士重工は長年、「技術あって経営なし」と言われた企業だった。戦時中は中島飛行機として軍の支配下にあって自由なことはできなかった。戦後は、支配者が興銀*1に変わっただけである。その後は日産と興銀の政争の場と長年されてきた。自動車の事を何も知ら…

Nissan CEDRIC

50年前の日本タクシー業界では、中型車はトヨタ、小型車では日産という住み分けが長い間続いていたが、1960年の3月に、日産がセドリック(アメリカの有名な小説『小公子』の主人公セドリックの名にちなんでつけられた)を発表し、ただちに生産を開始したの…

Road & Track 1955 July

このイタリアンなボディーは、アメリカはロングアイランドの Bill Frick Motorsが制作したスペシャル。エンジンは CadillacのV8で、ボディはカロッツェリア Vignaleによるもの。

60年代 新聞の広告から

資料提供 AD氏。

1957 Toyopet Masterline

1年という短命に終わった事実上のタクシー専用車トヨペット・マスターの生産ラインを活かして造られた。お台場のNYMに展示された個体は、なんとヤフオクで部品として出品されていたものを落札したもの。オーナー氏が貴重なナンバーを廃棄するのは惜しいと…

1962 TOYOTA PUBLICA Sport

A concept model of a light weight sports car based on Toyota's volume seller, Publica (stemmed from "Public Car"). The major feature was the canopy style sliding roof, through which driver/passenger accessed into the cabin. The engine was …

From the American automobile magazine ads of the 50s

世襲企業 大東自動車の失敗 Part 8

ロータリーエンジンの欠陥である、チャターマークはバンケル研究所自らが「一緒に解決しましょう」というほどの難問だった。致命的な未完成エンジンだったのだから、特許料を返してもらう選択もありだった。技術者たちからは「広島へ連絡して指示を仰いだら…

GUIDE to The MOTOR INDUSTRY of JAPAN 1961 edition Part 2

初代スカイライン。ボディのプレスが貧弱で、新車時から波打っていたという、まるで80年代のフランス車のような品質であったらしい。エンジンは4気筒 OHV1.5リッターでシンクロの4段ギアボックスであった。リアサスペンションはドディオンアクスル(ただ…

久々に亀有の夜

久々の亀有。約1ヶ月半ぶりであった。今度のレースは60年代のタルガフローリオ。自分は下手なんで言い訳の効くオースチン・ヒーレーで出るつもりだ。シャシーはU田さんのものをコンバージョンした^^ 新人のSさん(とは言っても自分よりも先輩だが)が、日本…

GUIDE to The MOTOR INDUSTRY of JAPAN 1961 edition Part 1

1959年にデビューしたブルーバード。初めて前輪は独立懸架となった。ギアボックスはコラムの3段、下り坂では簡単にフェードするブレーキが弱点であった。 1960年にデビューしたセドリック。中身はほぼ AUSTINである。ボディは日産初のモノコックであった。…

世襲企業 大東自動車の失敗 Part 7  欠陥エンジン

バンケル研究所を傘下におくNSUの創業は 1873年。元は編み物機械の製造会社であった。1892年にはモーターサイクルの製造を開始。1905年には自動車製造に進出。その後、1932年に自動車部門は FIATに買収された。高性能なモーターサイクルと、そのエンジン…

CONIGLIO (Powerd by HONDA)

一番左端のスーツの男性が、デザインを手がけた濱素紀氏。http://www.htcc.jp/coniglio.htmlレーシングクオータリーは、フォーミュラーも販売していた。資料提供 Bobさん。

The age of occupied Japan Part 2

ジョンソン基地の將校たちはハイドパーク内に家が用意されたが、兵士たちは民間の家を借りてゐた。然し、近隣住民とのトラブルなど問題が起こり狹山市も惱んでゐた。其処で住宅供給公社のやうなものを設立、ハイドパーク下にへばりつくように廣がる土地に米…

The age of occupied Japan

狹山市博物館で開催されてゐる特別展示。「ジョンソン基地とハイドパーク展」。 かつて、狹山市(舊入間川町)と入間市(舊豐岡町)にまたがつて、陸軍航空士官學校があつた。其處には敗戰後に亞米利加軍に接收されてジョンソン基地と成り、博物館のある狹山…

世襲企業 大東自動車の失敗 Part 6

この記事はフィクションであり、実在の人物、団体などとは一切関係ありません。 1960(昭和35)年に創立40周年を迎えてからの大東自動車は、折からのマイカーブーム爆発前夜といった、自動車産業大躍進の情勢を辰雄社長が的確に感じ取り、総合自動車メーカーへ…