世襲企業 大東自動車の失敗 Part 6

この記事はフィクションであり、実在の人物、団体などとは一切関係ありません。

 1960(昭和35)年に創立40周年を迎えてからの大東自動車は、折からのマイカーブーム爆発前夜といった、自動車産業大躍進の情勢を辰雄社長が的確に感じ取り、総合自動車メーカーへの前進という大号令を下すと同時に、積極経営の展開に入った。
 3階建て本社ビルを4階に増築、5月に軽4輪乗用車R360クーペを発売、これにより大東自動車は、3輪トラックを含めて自動車産業初の月産2万台を突破した。
 9月には辰雄社長が渡欧し、ロータリー・エンジンの技術提携仮調印。
 そして本社の配車センターの完成。
 1961(昭和36)年に入ると、広島宇品地区の紡績会社跡地10万坪を買収、さらに埋立地を22万坪買い入れ、飛躍への体制づくりを進める過程で、直治の大東自動車入りが決まったのだった。これらの積極策は、もちろん社長である辰雄の決断によるものである。
 6月末に行われた定時株主総会にて、三沢家3代目、39歳の若さである直治の副社長就任が決定された。
 その夜に行われた、直治の副社長就任歓迎会などがあって、11時過ぎに直治は帰宅したのだが、早速、辰雄からお呼びがかかった。辰雄は酔った直治を冷ややかな眼で見据えた。
「これからは言葉遣いと態度に気をつけろ」
 それが辰雄の注意だった。
 言葉遣いと態度、、、。
 傍若無人ともとれる、独特の巻き舌の広島弁と、178センチの大柄な体から発散する野太い声、子どもの頃から「広島の三沢」の長男として育った、恐い者知らずといった傲慢な態度。
 辰雄の心配は、大東自動車9千人の社員が、全員好感をもって迎えてくれるようにという、直治に求めた自戒であった。

 しかも忘れてならなかったのは、三沢家の家業と言われた大東自動車だが、三沢家の持ち株は2.75%にしか過ぎなかったことである。それで果たしてオーナーかという疑問が生まれるのは、やむをえないことであった。大東自動車はたしかに辰雄の手で、大きな会社に発展はしたが、三沢家が大東自動車に出資している金は総資本80億円の中の2億2千万円にすぎない。
 直治はただの一度も三沢家の持ち株のことなど、考えたことはなかった。広島の三沢家と、三沢家の大東自動車という一つの脈路は、どこにも疑問をさしはさむ余地のない、厳然たる事実、、、だったからである。
 だが実情は資本金の2.75%の持ち株。三沢の大東自動車と呼ぶには、なんともうそ寒い数字であった。

 副社長に就任して1ヶ月経った7月、そんな直治に初めての仕事が与えられた。大東自動車の技術団をともない、西ドイツのバンケル研究所へ、ロータリー・エンジンの技術研修に行くことであった。
 もともと辰雄は、直治を大東自動車に入れる前提として、辰雄の後継者にふさわしい仕事をつくってから、その担当として入社させるという腹づもりであった。ロータリー・エンジンの技術提携交渉に、自ら赴いたのも、これを直治の仕事にしようという意図があったからだった。
 昨年の秋、技術提携交渉で西ドイツへ行った辰雄は、現地で125cc、250ccと400ccのエンジン完成品を見せてもらい、実験室テストでは振動の少なさを実証、実際に搭載したNSU社の試作スポーツカーにも乗って「低空飛行する飛行機の気分」というのも味わってきた。
 しかし、辰雄には疑問があった。バンケル研究所の説明どおりに、もしロータリー・エンジンが完成しているというのなら、いま頃は量産化していなければならないはずだ。夢のエンジンなのだから、どんどん市場に出て行かないほうが不自然なこと。辰雄は量産化できない理由があるはずと睨んでいた。それがわかった上で仮調印を行ったのだ。
 辰雄は、その時点でロータリー・エンジンが完成しなくともかまわなかった。あくまで直治のお膳立と、大東自動車の技術広告料と割り切っていた。3億5千万円の特許料で、バタンコのメーカーという、大東自動車に対する世間のイメージを変えることができれば安いものと考えたのである。

 直治を団長とする、技術研修団8名は、7月中旬に羽田を飛び立った。バンケル研究所は未解決の問題を隠しているに違いない。それが何なのか、探り当てる使命がある。直治は不安が入り混じった気分となっていた。

この項つづく。