The age of occupied Japan


狹山市博物館で開催されてゐる特別展示。「ジョンソン基地とハイドパーク展」。


 かつて、狹山市(舊入間川町)と入間市(舊豐岡町)にまたがつて、陸軍航空士官學校があつた。其處には敗戰後に亞米利加軍に接收されてジョンソン基地と成り、博物館のある狹山稻荷山公園には多くの將校用住宅が建ち竝び、屈辱的にもハイドパークと呼ばれる事と成つた。ハイドパークや基地周邊に建てられた住宅は日本側から「ハウス」と通稱され、ジョンソン基地の返還が始まつた70年代初頭(完全返還は1978年、現航空自衛隊入間基地)にはアーティストの卵の若者達が暮らし、デザイナーやイラストレーター、ミュージシャンとして、後の時代に大きな影響を與へた人たちが多く輩出された。有名どころでは大瀧詠一細野晴臣をはじめとするロックバンド「はつぴいえんど」の面々がホームスタジオを持つてゐた。他に小坂忠などが居住してゐた。

 此れは當時のハイドパークを再現した模型である。
 手前にあるのは西武新宿線で、1958(昭和33)年9月7日午後2時頃、西武新宿線下り飯能行き電車が稻荷山公園附近を走行中、附近のジョンソン基地(現、入間航空自衞隊基地)から銃彈が撃ちこまれ、1兩目に乘車してゐた武藏野音大1年生の宮村祥之さん(當時21歳)の背中に命中し牀に倒れた。他の乘客の知らせで電車は緊急停車して宮村さんを隣のジョンソン基地にある病院に搬送したが1時間後の午後3時に死亡が確認された。此の事件で米軍警察(MP)が搜査したところ同基地内勤務のピータ・ロングプリー3等空兵(當時19歳)が犯人である事が判明し米軍側が即逮捕した。
 逮捕されたロングプリーは、
「空砲で射撃の練習をしようと走行中の電車に向かつて‘ひきがね‘を引いたが、實彈が入つてゐるとは思つてゐなかつた」
と供述した。
 當初、米軍側も公務中の過失による事故として片附けようとしたが、いかんせん電車に向けて銃撃したので言ひ譯が出來ず「公務中ではあるが、電車を狙つたのは公務とは到底認められない」と苦しい見解を發表した。此れにより埼玉縣警と狹山署は9月15日、ロングプリーを重過失致死罪で浦和地裁に書類送檢し、1959(昭和34)年5月11日浦和地裁はロングブリーに禁固10箇月の有罪判決を下した。同年9月29日ロングプリーが上訴權抛棄の手續きをとつたため刑が確定した。
 宮村さんは、熊本で母子家庭に育ち昭和30年に上京。夢であつた音樂家を目指して音大に通ふ傍ら、母親に迷惑をかけないやうバイトを見つけて頑張つてゐた。死亡する直前に母親宛てに手紙で「バイトが見つかつたから仕送りはしないでいいよ」と云ふ優しい手紙を送つた直後の出來事だつた。宮村さんは、同基地内のアルバイトとしてコントラバスを擔當してゐた。事件に卷き込まれた此の日はアルバイトの最終日で、日曜日の子供慰安演奏會を終へて歸宅の途中に悲劇が起つた。前年のジラード事件を彷彿させ、「日米安保條約」のもとで米軍が日本を守るどころか、彼らによつて市民の生活が危險にさらされてゐる事を改めて認識する事件だつた。




ジョンソン基地所屬の機體墜落による日本人の犠牲者は2名である。

1956年(昭和31年) - 5月22日、ジョンソン基地を離陸した米軍のF86機が入間郡坂戸町の民家に墜落し4歳の幼兒が即死。

1958年(昭和33年) - 7月25日、ジョンソン基地の米軍B57中型爆撃機が狹山市入間川に墜落。此の事故により、墜落地點に近い場所にある木材店に勤務する14歳の少年1名が死亡。




此の模型は、現稻荷山公園内に最後まで殘つてゐた將校用ハウスを再現したもの。内部は4分割されて長屋として使はれてゐた。返還後は公園管理事務所として使はれた。


此の項つづく。