世襲企業 大東自動車の失敗 Part 7  欠陥エンジン

 バンケル研究所を傘下におくNSUの創業は 1873年。元は編み物機械の製造会社であった。1892年にはモーターサイクルの製造を開始。1905年には自動車製造に進出。その後、1932年に自動車部門は FIATに買収された。高性能なモーターサイクルと、そのエンジン製造で世界的な名声を得てきた由緒あるメーカーである。自動車製造は 1957年に小型車の PRINZを発表して再開された。
 しかしながら、自動車の製造規模を比べると、大東自動車よりも一回り小さなメーカーであった。たとえば特許契約時の資本金はNSUの 16億円に対して、大東自動車は 80億円。従業員も 7000人対 9000人。これが 1965(昭和40)年になるとさらに差がついて、資本金は 58億円対 253億円。従業員もNSUの1万1千名に対して、大東自動車は1万8千名にふくらんでいく。
 西ドイツ南部の Neckarsulmに到着した直治たちは、町のホテルで荷を解くと、その足でNSUへ挨拶に行った。
 約100万ドルの特許料を受け取っていたから、研究所側も一行を温かく迎え、技術指導員を選んで、大東自動車の技術研修団にたいして、ロータリー・エンジンについて各分野ごとに技術説明を行うこととなった。最初に辰雄が訪ねたときの、実験室テストでの、運転中のエンジンの上に2マルクの銀貨を直立させても倒れないという、驚異的な振動の少なさを立証するテストや、試作品であるスポーツカーの走行テストを、研修団の一行にも同じようにやってみせた。
 研修団は、研究所が完成させたというロータリー・エンジンを基にした、分解、組立、調整などについて、徹底的な研修を受けた。ともかく自動車用としては夢のエンジンであった。
 だが大東自動車技術陣のトップ頭脳を集めた研修団だけに、研究所の結構ずくめな説明、指導の過程で、当然の疑問が沸き起こってきた。
「これだけの優れたエンジンを、NSUはなぜ大量生産しないのか?」
「近いうちに、、、量産体制になるでしょう」
 技術指導員は曖昧な答えで逃げようとしたが、苛立った技術研修団の1人が、なにか技術的な問題が残っていて、それで量産に移れないのではと、正面きって質問した。約100万ドルもの特許料をとった手前もあって、技術指導員も初めは否定していた。
「そんなものはあるがずがない」
「何も問題がないというのなら、我々は日本へ帰って、このエンジンの大量生産に入ってもよいのですね」
 研修団メンバーの最後の念押しで、研究所側もとうとう隠しきれなくなり、未解決な問題があると打ち明けた。
「実はハウジング内にチャターマークという波状摩耗ができます」
 ハウジングはロータリー・エンジンの心臓部である。心臓部で解決のつかない欠陥があって、夢のエンジンもなにもあったものではない。
 それで100万ドルの特許料をせしめたわけだった。
 さすがに研修団のメンバーも、呆れて二の句がつげなかった。説明通りなら、大東自動車は欠陥の解決されていない未完成エンジンを売りつけられたことになる。だが、さらに驚いたのは、技術指導員の次の一言だった。
「肝心な秘密を打ち明けた以上、今日から日本の大東自動車の皆さんも我々の仲間です。同士として、チャターマークの解決に力を貸してください」
 金を騙し取っておいて力を貸せという。
 チャターマークというのは、ローターとアペックスシールが擦れてできる傷で、この現象が出ると、エンジンの出力は低下し、耐久力が問題になるだけではなく、ハウジングの密封ができなくなり、オイルが流れ込んだりして白煙を吹き、エンジンの性能がゼロ同然になってしまうはずだった。
 驚くべき欠陥エンジンのロータリー・エンジン、、、どうすべきか、その夜、直治たちはホテルの部屋で額を集めて相談した。