日本クルマ事情

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part10 プリンス労組潰しで川又と塩路の「あうんの呼吸」

第2組合委員長3代目の塩路の時代になって、日産の組合は、一段と強固なものになったのは事実だ。塩路は「天皇」と影で言われる存在となった。塩路は日本油脂労組のときから、労組幹部がデマの流布に狂奔していると見るや、直談判して、堂々と反対意見を述…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part9 醜態を晒した宮家愈の職場復帰

1961年3月、委員長である宮家愈の職場復帰が課題となっていた頃、塩路は宮家に突然呼び出された。 「俺の後をたのむ。君の才覚、勇気と行動力を見込んでのことだ」 と宮家に頼まれた塩路は、委員長の座を譲り受ける事とした。 宮家はスタッフとして常任およ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part8 日産に入社した塩路

1953(昭和28)年4月、塩路一郎は日産自動車に入社した。日産を選んだ理由は、「月給の高い会社」ということだった。当時の日産はトヨタを抜いており、国産車最大のメーカーであった。日産労組は敗戦翌年の1946年に結成されたが、年ごとに勢力を増し、賃上げ…

Octane(オクタン)日本版創刊プレイベント

日本版オクタン創刊号。中身を見ましたが、かなり写真がきれいで質の良い雑誌です。 今月26日に店頭に並ぶようですが、既存の自動車雑誌業界に新風を吹き込んで欲しいものですね。

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part7 日本油脂で味わった共産党への失望

塩路一郎は、ある意味、社長の川又よりも日産では輝かしい存在であった。彼は労働争議で悪戦苦闘した日産の労働組合を一本化して、強力な統率のもとに、労使協調を実現化した最大の功労者であったからだ。塩路が自動車労連の会長として、豪華な自動車労連ビ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part6 日産の逆粉飾決算にたいする塩路の見解

1966(昭和42)年5月26日、大蔵省から、利益の多い大企業の利益処分に関連、いわゆる「逆粉飾」にたいして警告が発せられた。逆粉飾とは、出すべき利益を表面に出さず、諸引当金の形で内部留保することである。この内部留保にさいしては適正な税法上の措置を…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part5 幻の川又追放人事

川又が、労組に対し信頼をおいていたのには、大争議以外にも理由がある。1955年に起きた、幻のクーデターだ。もちろん、日産の社史からは抹殺された事件だ。 大争議での疲弊と、その直後の不況を克服した日産。ようやく経営に見通しがついてきた1955年の春。…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part4 塩路天皇

今年の2月1日、自動車労連元会長の塩路一郎が死んだ。86歳であった。 彼は、日産・プリンス合併の頃、肩幅が広くガッチリとした体型が頼もしい男だった。そして、その奥に潜む闘志は相当なもので、労組委員長としてこの男を敵に回したら、へたな経営者はあ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part3 歴史的な日産大争議

川又克二が日産社長の椅子に座ることとなった決定打は、歴史的な日産大争議の解決者だったことだ。川又は日産に乗り込むや、 「会社再建のためには人的整理の蛮勇をふるう以外に道はない」 と決意、組合と全面衝突となった。1949(昭和24)年9月のことである…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part2 川又が日産社長となった背景

日産の川又社長が、労務対策に関して大いに自信があったのには理由がある。川又は、1947年7月に、興銀の広島支店長から、日産自動車の常務として送り込まれ、赴任早々、日産の歴史的なストライキに直面、否応なくその対策に乗り出さねばならなかったからだ…

日産とプリンス合併の労組問題。。。Part1

異なる会社が合併しても、同じ経営者であり、株主であり、労働者であるから、その根本の理念、利害関係は、経営者同士、共通しており、同様のことが、株主、労働者にもいえるはずだ。特に労働者は、その共通点が濃厚であり、決定的であるように思われる。古…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part17 突然、大衆車サニーを売れと言われても

旧プリンスの販売店には、大株主である石橋正二郎にたいする憧れもあり、同時に御料車とエンジン技術に一種の郷愁的な感情があった。それでプリンス系販売店会議で、車名変更に関する販売店オーナーの抗議に同調する空気が生まれたのであった。 日産プリンス…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part16  石橋に相談もなく決められた車名変更

グロリアからプリンスの4文字を削除した車名変更問題に関して、石橋相談役には一切、話がなかったと言われている。川又社長は、当時の経済評論家に対し、 「発表の直前に、石橋さんに報告、了解してもらった。だから、ぜんぜん相談しなかったわけではない」…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part15 哀れプリンスの名が消滅へ

1967年4月12日、東京・高輪のプリンスホテルで、日産自動車の新車発表パーティーが開催された。この日、日産グロリア新発売と書かれた赤い垂れ幕が、おりからのスモッグで汚れた東京の空に高く上がった。その鮮やかな色のアドバルーン(最近、見かけませんな)…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part14 トヨタ勝又グループの不都合な過去

合併が地方販売店に与えたショックを示す典型的な事件として、千葉プリンスと埼玉プリンスの例があげられる。この両販売店とも、その経営者は同一人物である。社長の勝又豊次郎は、この地域の自動車ディーラーを当時支配していたし、その息子たちが後継とな…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part13 プリンス販売店の悲喜劇

さて、従業員の場合、被合併当初、心配したのは、合併に伴う解雇である。しかし、おりからの自動車業界の好景気で、労働力が不足傾向にあったので、杞憂に終わった。むしろプリンスから、日産の社員になることで、一種の誇りすら感じたようだ。しかしながら…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part12 外山副社長の悲哀

人事の差別はしない、と明言した日産川又社長であるが、実際は明確な人事差別が行われたのは事実である。 その悲劇を象徴するのが外山保だ。 外山は1909(明治42)年4月生まれ。1930(昭和5)年、東京高等工芸(現千葉大学工学部)の精密機械科を卒業、プリンス…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part11 人事の差別はしないはずだったが。。。

日産とプリンスの合併の際、儀礼的であったかとも思われるが、石橋正二郎は、合併後の日産自動車の会長就任を要望された。しかし断った。その理由として、石橋は次のように語っている。 「私は目立つことが嫌いだ。今後は人事について相談にのる程度で、その…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part10 合併の秘密を守り抜いた秘策

日産とプリンスの合併問題は、両社の幹部でも、現実に調印、発表されるまで、外部にはもちろんのこと、内部にも秘密が漏れることはなかった。当時、外国メーカー参入の自由化問題を控えて、経済担当の新聞記者はネタ探しに駆け回っていた。もし、この秘密が…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part9 顔面蒼白の役員たち

日産とプリンス合併の推進者であり、世間から持ち株をうまく売り抜いたと評されていたブリジストンの石橋正二郎も、プリンスを手放すことには相当に悩んだようだ。 石橋は当時の心境を、つぎのように語っている。 「プリンスの経営をやって10年以上を経過、…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part8 異例の合併比率変更

プリンスの経営内容が予想外に悪いことを知った日産の川又社長が、どんなに慌てふためいたかは、合併比率の急遽変更という措置に、端的に現れている。 当初、合併比率は1対2と、それがほとんど決定的のように伝えられた。事実、この種の合併発表に際し、合…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part7 質より量を選んだ川又克二

日産の川又克二社長は、質より量をとった。 川又は、プリンスの話に乗る3年前、軽自動車コニーの愛知機械を引き受け、その経営再建に努力、成功させた経験がある。同じ興銀出身の小田邦美が経営に失敗したのを尻拭いしたのである。その経験による自信も手伝…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part6 プリンス自販の酷い内容を見抜いていたトヨタ

桜内通産大臣は、プリンスの合併先として最初にトヨタを選んだが、断られてしまった。しかし、それで断念せず、日産自動車との合併を画策する。そのターゲットは社長の川又克二自身であった。そこで順序として、桜内はまず、興銀頭取の中山素平を訪ねた。興…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part5 東洋工業との合併話

住友銀行は、プリンスの内容を調査、現状はとにかく、近い将来に貿易の自由化が行われ、資本自由化の黒船が到来したときの状態を研究分析した。その結果は、独立困難というものであった。そこで、合併の数年前、同じ住友銀行系の東洋工業(現マツダ)とプリン…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part4 プリンスの合併に積極的だったメインバンク住友銀行

合併発表当時、プリンス自動車の資本金は120億1,500万円で、総株式2億4,030万株であった。このうち、石橋正二郎の石橋産業の持ち株は4,800万株で、総数の2割を占め、2位の日興証券の1,248万株の4倍近い、圧倒的な大株主であった。その石橋が、合併に積極…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part3 プリンスを手放した石橋正二郎の思惑

日産との合併に関し、プリンス自動車会長である石橋正二郎の心境は複雑なものがあった。プリンスを手放すことは、事実上国家の要請である。しかし自らが育てた企業だけに、資本家・経営者としての執念があった。石橋が九州からはじめて上京した若かりし頃(大…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part2

日産とプリンス合併を主導したのは通産省であった。当時の通産大臣は、自民党の河野一郎*1派を背景とする桜内義雄であり、次官は佐橋滋であった。通産省のスポークスマン的存在であり、「ミスター通産省」と呼ばれていたほどの男だ。城山三郎の『官僚たちの…

日産とプリンス 合併の裏で。。。Part1

昨日書いた富士重工もそうだが、プリンス自動車工業も「技術あって経営なし」の企業であったことは事実だ。モータリゼーションの息吹がこれから本格的に芽生えようとしていた60年代初頭の日本にあって、そのラインナップに小型大衆車が無いというバランスを…

世襲企業 大東自動車の失敗 Part 8

ロータリーエンジンの欠陥である、チャターマークはバンケル研究所自らが「一緒に解決しましょう」というほどの難問だった。致命的な未完成エンジンだったのだから、特許料を返してもらう選択もありだった。技術者たちからは「広島へ連絡して指示を仰いだら…

世襲企業 大東自動車の失敗 Part 7  欠陥エンジン

バンケル研究所を傘下におくNSUの創業は 1873年。元は編み物機械の製造会社であった。1892年にはモーターサイクルの製造を開始。1905年には自動車製造に進出。その後、1932年に自動車部門は FIATに買収された。高性能なモーターサイクルと、そのエンジン…