FBM 2015 PEUGEOT 404


1,618 cc KF2 injection 96 PS / 5,700 rpm

 日本ではコロンボ警部のボロボロの愛車で有名な Peugeot 403。地味なクルマだったが、実はピニンファリーナによるものだった。プジョー自体はそのことを隠していたが。そして1960年5月に後継車の404を発表。その時初めてピニンによるデザインとプレス発表したのだった。
 さすがにピニン黄金時代の作品だけあって美しいボディライン。今回、初めて現車を観て納得した。この個体は元カーグラフィック誌のチーフテスターで有名だった笹目二朗さんの所有していたクルマとしても有名なものだ。

 ボディーは初め標準的なベルリーヌのみであったが、1962年12月には、豪華装備のシュペル・リュクスが加わり、62年4月からは洒落た2+2カブリオレと4座クーペが加わった。もちろんボディはピニンのデザインで、「f」のエンブレムが付いている。

 足回りでは、伝統の前輪の横置きリーフが廃止され、コイルによるマクファーソンと大変身。プジョー自製のダンパーもレバー型からテレスコピックに改められた。このフロントサスペンションは、ラジアル・タイヤ装着を前提として安全基準を満たしたヨーロッパでも最初のクルマとして知られている。
 すべてに最新の技術が盛り込まれた 404であったが、ブレーキは4輪ドラムであったことには驚いてしまう。1962年に登場したルノー8が最高速度が120㎞/hにすぎなかったのに4輪ディスクがおごられたいたのとは対照的だ。さすがに1969年には前輪にディスクブレーキが装備された。なおステアリングは伝統のラック&ピニオンだ。
 ピニンのデザインは左右のフェンダーよりも低いボンネットを特徴としていたので、エンジンは右へ45°まで傾けて搭載された。4気筒エンジンは1618CC(9CV)で、はじめは3ベアリングのままで、圧縮比7.4と1基のソレックス・キャブレターで72psとされていた。


 
 もちろんエンジンは改良されて、チューンにもいろいろある。1962年4月には3ベアリングのままクーゲル・フィッシャーのポートタイプ燃料噴射と圧縮比8.8で85psに強化されたものがカブリオレとクーペに搭載され、同年9月にはベルリーヌにも注文できるようになった。1964年にはブロック、クランクシャフトともに新設計されて5ベアリングとなったが、性能はそのまま! しかし翌65年にはソレックス付きが88ps/5700rpmとなった。さらに1967年にはベルリーヌのソレックス付きも圧縮比が8.3に引き上げられ、74ps/5600rpmと強化された。
一方、1963年2月には 403 D の1816㏄ディーゼル・エンジンを48psから55psに強化して搭載した 404 DAが登場。5か月後にはボアアップした1948㏄(8CV)60psに強化された。5か月前に買った人は文句タレたろうなぁ。
 ミッションはトップが直結の4段フルシンクロ・コラムシフトが標準だったが、1960年6月からはイエガー製電磁自働クラッチが登場。65年12月からはプジョー初のZF製3速ATも設定された。
車重はベルリーヌの1070㎏〜ディーゼルの1150㎏。最高速度はディーゼルの130㎞/hからインジェクションつき88psの160㎞/hまで。ガソリン仕様は最初期の72psでも142㎞/hまで達している。

驚くべきは、404の製造期間の長さで、1978年11月までじつに18年間も製造され、2,885,377台もの生産台数を記録したロングセラーだったのだ。

Citroen GS

1970年にデビューしたGSこそシトロエンらしい。
1600ccクラスのボディに新開発のSOHC1100ccの空冷水平対向エンジンを搭載。足回りはアッパーミドルクラスのDSと同じ独創的なハイドロニューマチックシステムを採用、前輪はダブルウィッシュボーン、後輪はトレーリングアーム。ブレーキはフロントがインボードの4輪ディスク。
大衆車に惜しげも無く技術の粋を投入したシトロエン入魂の一台。
そのかいもあってか、シトロエンとしては初の欧州カー・オブ・ザ・イヤーを獲得している。

以下、素晴らしいカタログから。


高梨廣孝 氏によるScale 1/9  Indian Chief 1948

 Indian Motocycle Manufacturing Companyはアメリカはマサチューセッツ州スプリングフィールドを拠点に1901年、アメリカ初のモーターサイクル「1901シングル」を発表し創業します。元々は Hendee Manufacturing Companyとして創業しましたが、1928年にIndian Motocycle Manufacturing Companyに社名を変更しました。塗装の深みのある赤は Indianのイメージカラーとなります。

 1922年・V型2気筒1000ccの「チーフ」を発売。外見上はサイドまで回り込んだ大型のフェンダーが目につきます。技術的にはアメリカで初めて「密閉式」アルミニウム製プライマリーケースを採用しておりました。翌年には1200ccも販売されています。しかし、ライバル社の Harley-Davidsonよりも高価で重いボディは徐々に米国市場から駆逐されていき、長い低迷の末 1953年に同社は精算されます。

 現在、市ヶ谷の山脇ギャラリーで行われているAAF作品展に手品されている高梨氏による作品である。彼の作品の緻密さが写真で感じていただけるだろうか。フルスクラッチビルドで作られた究極の模型といってよいだろう。銅、真鍮、洋白といった金属素材を使い、接合は銀ろう付けで行う。フェンダーは熱してなましてから様々な金槌で叩き出す。ホイールは旋盤によるもの。チェーンも真鍮製のパーツを作り組み立てているのだ。

 これだけ手間ひまかけた自身の作品を高梨さんは他人には売らない。値段がつけられない高梨さんの魂が作品にはこもっているのだろう。

1936(昭和11)年の自動車生活


1935 DUTSUN Type-14 Roadster



戦争直前である1936年の自動車保有台数は 126,248台(日本統計協会『日本長期統計総覧』1999)。道路総延長は 906,003キロで舗装率は僅か 1,24%。現在の 1,207,867キロ 舗装率80%*1とは大違いであり、自動車はほとんどが商用車のトラックやバス。乗用車を所有している人達はごく一部のスノッブな人たちでしかなかった。

ここに紹介するのは雑誌『話』*21936年11月号に掲載されたコラムである。

筆者の島津保次郎は下駄用材商と老舗海産物商「甲州屋」を営む一家の次男として生まれ、家業も継がずに根っからの映画好きが高じて、映画に手を染めたばかりの松竹が創設した松竹キネマ蒲田撮影所に入社する。コラムを書いた頃はメロドラマが得意で顧客を呼べる監督として知られていたようだ。



自動車と肉体


島津保次郎

 去年の暮、半年がかりで自動車の試驗を受けて免許をもらつた時はさすがに嬉しかつた。其れから毎日運轉してゐる。此のお陰で種々違つた社會の面にもふれる事が出來た。
 人間は全く何でも經驗するものだ。先づあの試驗である。私は實科は五囘目、學科は二囘目でパスした。あとで人に聞いてみると成績の好い方なのださうだ。少し得意に成つた。私のやうな年寄り、と言つても自分ではまだ青年の積りだが多少頭がうすいので、決して禿げと混同されてはこまる、薄いのだ、人はオヤジオヤジと言ふ……其のやうな初老者は受驗者には珍しい。皆二十代の若い人達許りだ。然も皆が皆あまり上等でない風態をして受驗にやつて來る。自分もなんだか張りつめた氣持ちに成る。他の連中は殆どすべて食ふために自動車運轉免許證を取りに來るのだから、第一眼の色が違ふ。然もさうした人達が落第して、遊び半分の私が合格するなんて皮肉な話だ。悲劇だ。考へやうによつては、いい年をしてこんなことをやる私の方が喜劇かもしれぬ。いづれにしても骨が折れた。中學校の試驗よりも難しかつた。實科よりも法規の試驗が大變だつた。私程の年に成ると記憶力は目だつて減退する。其れに數百の問題を暗記するなんて竝大抵のわざでない。公然と自動車が乘りまはせるやうに成ると全く翼の生えたやうな氣がした。
 仕事の合間も時々氣ばらしにドライブをやる。其の點大船はありが度い。片瀬までドライブウェイがあるし茅箇嵜の海岸道路は絶好だ。赤松の防風林と渚の間のアスファルトは十五間位の幅がある。然も天氣の好い日は正面に冨士山が聳えてゐる。全くファンク映畫*3を地で行くあれだ。江ノ島まで20分……音にきく此の島の美しさは格別である。
 自動車運轉のコツはエンジンを自分のものとする事だ。肉體の一部とする事だ。技術で運轉するやうではまだ素人である。本能で運轉しなければならぬ。道を歩いてゐて二本の足の重心に心をくばる人はゐない。自動車の運轉に於てもハンドルやギアなど、またロウやセコンドやトップの使ひわけなどに意識をもつやうではまだ駄目である。道を歩くときの足に對する如く、ひとりでに手足が動かなくてはならぬ。と大きな事を言つても、勿論まだ私は其処まで行つてはならない。唯今更乍ら技術の肉體化と言ふことを痛切に感じた儘である。ピアニストもタイピストも運轉手も、キャラメル女工も其の點では同じことだ。
 熟練した運轉手は運轉臺に坐つてエンジンの微妙な音によつて自動車自體の健康状態を感じる。タイヤに入つてゐる空氣の分量までわかる。此處まで達するのはひとへに訓練である。映畫の仕事もこんな風に行くといいと思ふ。勿論或程度までは映畫テクニックの肉體化と言ふことは考へられる。ところが繪や音樂なんかと違ふから不便だ。尤も藝術創作と言ふものはすべて技術の肉體化の上に築かれるものだ。若し熟練のみによつて價値を決めるなら、タイピストもピアニストと同じく藝術家でなくてはならぬ。唯違ふのは其の上に出來上がる。いや其れを下から持ち上げる思想が尊いのだと思ふ。自分の熟練に自負してはならない。私が大分運轉に馴れて來たのである。人は此れから要心しろ、と言つて呉れる。よく泳ぐ者よく溺ると言ふ譯なのだ。
 自動車の運轉でも本職の方でも私は此れを警戒しなければならないと思ふ。映畫の仕事でも、私は一通りの熟練工である。馴れた運轉である。自負ではなくさう考へても好いだらう。だが事故を起こしやすいのは此れからなのだ。
 さう自らを戒めてゐる。

このコラムが書かれた翌年の1937年7月7日、中国北京郊外の盧溝橋での日中両軍の小衝突を発端として、日中は全面戦争状態に突入することとなり乗用車を乗るためのガソリンは配給制となる。以降『贅沢は敵だ』などとの国民相互監視体制のもとに大日本帝国は破滅の道を転がり堕ちることとなる。


島津保次郎は敗戦直後の1945年9月18日に胃がんにより東大病院で亡くなった。享年49歳であった。


1936 DUTSUN Type-15 Roadster

*1:因みに欧米各国はほぼ100%となっている。

*2:月刊誌文藝春秋の前進とも言える雑誌。

*3:獨逸の山嶽映畫の巨匠アーノルド・ファンクのこと。作品で日本で有名なのは『新しき土』。1937年公開の日獨合作映畫で、新しき土とは滿州帝國のことを暗喩してゐる。

1932  DATSUN Type11 Phaeton どちらが日本最古なのか???

座間にある日産のヘリテージコレクションにある 1932年 DATSUN Type11 Phaeton。
1959年11月に開催された第6回全日本自動車ショーの会場で公式に一般公開されて以来「現存する最古のダットサン」として紹介されてきたようだ。


現存する最古のダットサン車。ダットサン車は1931年に発売され(10型、495cc、10ps/3700rpm)、市販1年目は約10台が生産され、32年には11型として約150台が生産された。
その後1933年に自動車取締令が改正されて750ccに排気量アップされ、車種は4人乗セダン、クーペ、フェートン、ロードスターライトバン、トラックの各種が製造された。
1935年には横浜工場でシャシーからボディーの一貫生産が加わり、大阪工場との並行生産で、年間3800台を生産する当時としては画期的な大量生産車となった。
当時ダットサン車は、
1)国産車である
2)値段が安い(価格:1350円)
3)日本の道路事情に適している
4)燃料費が安い
5)無免許で運転できる(当時気筒容積が750cc以下の自動車は運転免許が不要だった)
など、の特徴が認められ、自家用車やタクシーとして需要が急速に増大し、「ダットサン」の名称は「小型車の代名詞として使用されるほどに普及した。また、アメリカ、スペイン、ポルトガル、インド、ブラジル等の世界各国にも輸出された。(当時の輸出実績、1934年44台、35年53台、36年87台)

https://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-5.html

ところが、ところが、昨年11月末に行われたトヨタ博物館 クラシックカーフェスティバルには、これまた「現存する日本最古のダットサン」として11型フェートンが展示されていたのだった。

トヨタ博物館がレストアし所有する個体である。

さてさて、日産とトヨタが所有するダットサン11型フェートン。どちらが現存する最古のダットサンなのか。
答えはトヨタ自動車博物館所有の個体が日本最古なのだ。

日産ヘリテージコレクションが所有する個体のプレートには「戸田鋳物自動車部大阪工場 DATSUN 12427」とある。戸田鋳物とは現在の日立金属の前進で、戸畑鋳物株式会社のこと。これが 1933年にダット大阪工場を70万円で購入。戸田鋳物自動車部大阪工場となった。
トヨタ自動車博物館がレストアした個体のプレートには「ダット自動車製造株式会社 DUTSUN 車体番号9174」とある。ダット自動車の存在期間を考慮すると、トヨタ自動車博物館の個体のほうが現存する最古のダットサンであることは明白である。

伝え聞くところによれば、「貴重な現存する最古の11型」であり保存状態も良好だったようだ。遺族は礼儀としてというか、当然買ってくれるだろうと考え日産に声をかけたのだが、値段で折り合いがつかなかったそうな。いろいろあってトヨタ博物館が引き取るに到った経緯のようだ。

遺族が日産に提示した買い取り料は数百万という良心的なものだったようだが、そんな金額ならゴーン会長のポケットマネーで楽に買うことが出来ただろう。
予算など日産には事情があったのだろうが、会社にとって大切なものであろう「現存する最古のダットサン」を手に入れるチャンスを逃してしまったのは事実である。

金子辰也ジオラマ展


静岡ホビーショーの期間に行われた『金子辰也ジオラマ展』。
金子辰也さんと言えば、タミヤや模型雑誌ホビージャパンで知っていた憧れの人です。


会場入口には山下達郎からの鼻が届いておりましたが、なんと驚くべきことに金子辰也さんが幻のバンドであったシュガーベイブの最初で最後のアルバムをデザインしていたのでした。時は1975年、金子さんが21〜22歳頃のことだそうです。



金子さんが中学生の時に作った作品。タミヤのキングタイガー。鉤十字が箱絵にあるのはご愛嬌。映画『バルジ大作戦』に刺激されて作ったそうです。50年近く前の作品が保存されていることに驚きます。車体色のダークイエローは調合して作ったそうです。迷彩は筆をティッシュで拭き取って叩きつけて塗ったとか。



これは金子さんがプロ・デビューする前の作品。NITTOのキットです。下の写真の作品を東京AFVの会に出展してから、当時タミヤの情景写真コンテスト『パチッ』の読者には有名だった伝説の模型集団カンプグルッペジーベンとの交流が始まったそうです。



これがプロ・デビューとなった模型雑誌ホビージャパンに掲載された作品。

PRINCE Skyline Sport Coupe トリノショー出品車と量産車の違い

先日訪れた日産ヘリテージ コレクション。
そこにはプリンス スカイライン スポーツが2台展示されている。青いのがトリノ ショー出品車、ゴールドは量産車*1。2台並べてあって気づいたのは両車の細部がかなり違うこと。

まず、フロント・グリルがトリノショー出展車は薄く、それに伴いエンジンフードも低い。量産車はグリルが大きく、エンジンフードも高くなっている。



フロントグリルにあしらわれたエンブレム。トリノショー出展車は、NSUからクレームがきてトリノショー開催2週間前に急遽プリンスの頭文字であるPをとりやめたのだった*2。グリルの楕円形格子も大きさが違う。



ライト周りの仕上げも大分違う。トリノショー出品車は薄い、量産車は肉厚だがエッジが立っている。



フェンダーミラーもトリノショー出品車の方がデザインされている。量産車は汎用品だろうか。





テールレンズ廻りもメッキの厚さや、控えめなテールフィンも含めて形状が微妙に違う。トランクの縁のメッキモールは量産型のほうがエッジが効いている。


この写真で見る限りテールフィンの角度が、量産型はトリノショー出品車よりも傾斜しており、後ろに突き出ているようだ。



トリノショー出品車にはリアナンバーの下にメッキの飾りがつくが量産車には無い。また量産車のマフラーはトリノショー出品車と違い2本出しとなっている。

他にホイールキャップ、エンブレムやルームミラーなどこと細かに違うようだが、何よりもボディは木型から1台づつ叩きだして仕上げるのだから、個々に微妙に寸法は違うはずだ。
何れにしても日産によるレストアがオリジナルに忠実に成されていることが前提となる。
日産ヘリテージコレクションに飾られていたプリンスR380が、オリジナルの赤とは似ても似つかない茶色に無残にも塗られていたことを最後に記しておこう。


*1:量産と言っても職人による手作りですが。

*2:トリノのTに見えるが。