Racing management Alan Mann (1936-2012) Part1

3月21日、偉大なるレーシング・チームのオーナーであった Alan Mannが75歳で亡くなった。60年代に FORDのレーシング・チームとして欧米で大成功を収めた男である。その彼が残した手記を数回に分けて紹介する。



1964 Spa 24h the European Touring Car Challenge Jacky Ickx


 どんな大レースでも、お金を払ったお客さんが見入るのはドライバー、メカニック、オフィシャル、それに目立つ有名人たちである。もちろん彼らは、結果が良かったレースでは重要な人たちだ。
 しかし、クルマをスターティング・グリッドにつけるまでに各チームによって周到に準備されたことまで、一般の観衆は考えもしないであろう。私はこの観客から認められないか、考えてもみられない1人の人間がチーム・マネージャーだと信じている。その仕事は複雑で、尽きない問題で詰まっているが、私は華やかなレースの影で、なぜこのような仕事が必要なのか、この概略を説明してみたい。
 どんなレーシング・チームでも来る日も来る日も問題が起き、これらは全て急ぎでしかも確実な解決が要求される。これらの問題を上手く解決するのは、チーム・マネージャーただ1人の男である。彼の立場は孤独なものであり、またそうでなければならない。チーム・マネージャーは船長でなければ、彼の仕事に絶対必要な権威でもってコントロールできない。大手メーカーが次々とレースに参戦してくるので、この仕事の重要性が増してきた。本当のレースやラリーの厳しい現実について、少し知っているか、まったく知らない人間に対し、自分の行動を説明したり言い訳したりしなければならないとしたら、コンペティションやチーム・マネージャーの仕事はすぐにできなくなる。しかしながら、その決定を疑いもなく受け入れて信頼できる間違いのないマネージャーを選ぶことが、コンペティションまたはレース部門を成功させる1つの大きな要因であることを、これら大メーカーの多くが認識してきている。
 あるチームはそれほど上手く行かず、マネージメントの不手際で悩むか、融通の効かない誤った指示で息も詰まりそうになるか、何れにしても結果はいつも同じで、ぐずぐずした用心深い決定で、チーム内に波風が立つのである。これらの2つの要素は、スタートについたとしても、既にレースの半分を失っているのだと言いたい。

1965 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 5

 軽量の Chaparralは特にワイドなタイアを履いていたため、豪雨ではまったく走らなくなった。新型の Firestone製レイン・タイアは立ちはだかる雨水に対しほとんど無力だったのだ。午後 5:50、#3 Chaparralはピットインし、嵐が去ることを待つことにした。公式のタイム・チャートによれば、その時間は 15分にもおよんだ。

 他の Chaparralも嵐の最中は酷いスピンに悩まされたたため、同様にピットインして天候が好転することを待つこととなった。その後、高電圧のレギュレーターに故障を抱え、これの修理のために40分もの時間をロスすることとなる。

 レースが残り3時間となった頃に雨は小ぶりとなり、やがてやんだ。水浸しとなっていたコースは、すぐに吸水性の高い南フロリダの砂に染み込み、乾いてしまった。Hall/Sharp組の Chaparralは思いっきり飛ばしに飛ばし、2位の Miles/McLaren組の Ford GTに対し未だリードを続けていた。



 観客たちは、もうレースは十分と思っていた。 Chaparralがトップを走り続けていたからではない。多くのレース・ファンの衣服はずぶ濡れで泥に汚れ、おまけに気温が上がってきていた。レース見物どころではない、早くホテルや家に帰って熱いシャワーを浴びてサッパリしたい、というのが本音だった。午後7時、多くの観客はヘッドライトを点灯し、サーキットを後にした。

 当時、Sebringに来ていたレース・ファンの一部は御洒落して観戦していた。男はスポーツ・ジャケットにタイ。女性はドレスにヒールが基本だ。しかし大多数の観衆はカジュアルだった。男はスポーツ・シャツ。女性はストレッチ・パンツにシルクのブラウスというのが多かった。婦人雑誌の記者達は流行の最先端の取材でサーキットに詰め掛けていた。大衆の中でも、特にパームビーチの連中は、海外のプレスが詰めかける国際レースには、良く見えるように念入りに着飾っていた。レース・プロモーターの Alec Ulmannや、チーム・オーナーの John Mecomなどは注目されるファッション・リーダーだった。

 その着飾っていた連中に嵐が直撃した。大切な服はビショビショに濡れ、雨水はくるぶしまで上がり、パンツもずぶ濡れとなった。せっかく、この日のために買った靴とドレスとパンツは台無しとなった。傘は強風で無意味となり、レインコートを着てもフロリダの気温と湿度の高さで、大事な服が汗びっしょりとなるまでの時間はそうかからなかった。クルマの中に逃げ込む手もあったが、気温 30度を超える暑い日にクルマの窓を閉めている者は誰もいなかったため、着替えの適切な場所とはならなかったのだ。

 レース開始9時間目、133周をこなした Graham Hill/Pedro Rodriguez組の Ferrari 330Pはクラッチのトラブルに見舞われた。彼らは3位を走っていたのだが、最終的にリタイアとなった。その時点でギアボックスには2個のギアしか残されていなかった。これにより#31 Ferrari 250 LMの David Piper/Tony Maggs組が順位を上げた。

 そして午後10時にチェッカーフラッグが振られ、Jim Hall/Hap Sharp組の Chaparralが 197ラップ、総走行距離 1630.72km 平均速度 135.5km/hで完走して1位となった。彼らは招待参加だったので正式な記録とはならないし、豪雨の中でレースを続けたことに疑問を持つ人もいる。2位は4周遅れで Miles/McLaren組の Ford GT。レース終了後に Milesと McLarenが漏らしているのだが、彼らはレース中に Chaparralを抜いてレースをリードしたいと Carroll Shelbyに訴えたが、Shelbyがそれを許さなかったというのだ。記者が彼にその理由を尋ねたところ「我々は完走しないことよりも、2位になることを選んだのだ」と答えている。ブリティッシュ・レーシング・グリーンに塗られた Ferrari 250 LMの David Piper/Tony Maggs組は3位となったがクラス優勝となった。4位だがGTクラスの1位となったのが #15 Daytona Coupeの Bob Bondurant/Jo Schlesser組だ。

 このレース結果は多くの人たちに幸運を運ぶこととなった。まずはJim Hall/Hap Sharp組だ。ひどい熱に記録的な嵐、そして悪名高いラフなコースであるにもかかわらず、彼らのマシンは総走行距離を伸ばすことができることを証明した。Chaparralに負けたことは事実であるにもかかわらず、Carroll Shelbyは幸せだった。Shelby Americanチームの FORD GTは2位であったが、プロタイプ・クラスでは1位と2位を占めることとなったからだ。また Shelby Cobra Daytona Coupeは GTクラスで1位から3位を独占した。

 Porscheのファンも大喜びだった。4台参戦した内の3台が10位までの入賞となり、小排気量にもかかわらず善戦したのである。記者達は、今後 Porscheが Ford やFerrari、Chaparralといった強豪と渡り合える穴馬になるであろうと予測した。

 アメリカのレース・ファンは間違いなく大喜びしていた。クルマもドライバーもすべてアメリカ製のマシンが強敵の欧州勢を打ち破り、しかも全米一ラフな路面の難しいサーキットで最悪の天候にもかかわらず優勝できたのだ。アメリカ製マシンでアメリカ人ドライバーが優勝した国際レースは、1921年のフランスGPで Duesenbergが優勝して以来の快挙であった。

 1965年、この年は Chaparralが最も成功した年となった。22のレースに参戦し、16勝を挙げている。Daytona, Sebringでの貴重な経験を元に、FORDは翌年に念願のル・マン24時間で1位から3位までを独占するという快挙につなげていった。

 Carroll Shelbyと彼の Shelby Americanチームにとっても 1965年は素晴らしいものとなった。Cobra Daytona Coupeは11戦中8戦でGTクラスの優勝車となり、World Manufacturer’s ChampionshipにおいてGTクラスの世界チャンピオンとなった唯一の米国車となった。この年の終わりにFIAは Daytona Coupeを時代遅れのものとして葬るためにレギュレーションを変更している。

 このレースで優勝した Chaparralはクーペ・ボディに改造され、その後のレースに出場することとなる。

 何十年もの間、ヨーロッパのマシンがスポーツカー・レースや耐久レースを支配してきたが、60年代の短い期間ではあったが、アメリカ製のマシンがレースを征する瞬間があったのである。

1965 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 4


 Hall/Sharp組の Chaparralは午後4時となっても、レースをリードし続けた。Hill/ Rodriguez組の Ferrari 330Pが2位、Miles/McLaren組の Ford GTは3位についていた。上位3位までの順位は午後5時になっても変わることはなかったが、真っ黒な雲が北から近づいており、嵐が迫っていた。何人かのレーサーは、それに気づいてヘッドライトを点灯させた。

 一部の観客はラジオによる最新の天気予報を聴きたくてクルマに戻った。しかし残念なことにラジオから聞こえるのは雑音ばかり。共産国キューバアメリカ合衆国が互いに妨害電波を発しているからだった。南フロリダは、未だ冷戦下の強い影響下に覆われていたのだった。

 17:25、強い嵐がサーキットを直撃した。最大瞬間風速は 80km/hと凄まじいもので、風の威力はグッドイヤーの飛行船の大きな船体を直立させてしまった。観客エリアのテントや小さな建物は簡単に吹き飛ばされてしまった。

 そして土砂降りの雨が灰色の壁のようにサーキットに降り注ぎ、視界はほとんどゼロとなる有様。降り始めの最初の 30分で、サーキットの排水システムの許容量を軽く超えてしまった。


 このような劣悪な路面状況では、まるで水を耕すようなもの。ラップタイムは2〜3倍もかかるようになってしまった。水位は一部で13センチにも達していた。複数のマシンがコース上で停止したり、点火不良でピットインを余儀なくされた。水に濡れたディストリビューターや電気系統が乾くのを待つしかなかったのだ。

 Chaparralや Lola、Ford GTや Ferrariなどの車高の低いプロトタイプは、路面が水位を増したことにより同じ問題を抱えてしまった。エア・インテークから強制的に大量の水をコクピットを含む車体内部に取り入れてしまうのだ。その力は凄まじく、数台のマシンはダッシュボードから計器やスイッチを飛び出させててしまうほど。応急処置としてピットマンは吸入口にボロ布やタオルを押し込んで防ぐしかなかった。


古いアリタリア航空の看板に注意。


 新しく造られた保護壁によりピット・レーンは、まるで運河のように水が溢れていた。スペア・タイアは辺りを漂流し、工具は水に沈む有様。ドライバー、メカニック、オフィシャルは水の中を漕ぐような状況。Bizzarriniチームのオーナー Giotto Bizzarriniは、彼の高価な靴が濡れないようにピット内のロッカーに保管し、2台の Bizzarrini Iso Grifosを監督するためにズボンをロールアップして裸足でピットに戻った。ところがロッカーが流され、彼の高級な靴は見つかることはなかった。翌日の飛行機には靴下のみで乗り込んだと言われている。

 幅の広いレース用タイアはアクアプレーニング現象により、トラクションとハンドリングを失う危険な状況となる。一部のドライバーやメカニックは、オフィシャルが赤旗を振ってレースが中止されることを待ち望んでいた。しかし旗は振られることはなく、雨の勢いが続く中レースは続けられた。Mike Gamminoがドライブする Bizzarrini Iso Grifoがメルセデス‐ベンツ・ブリッジに激突、車体は真っ二つとなったが奇跡的に大した怪我もなく救出された。

 プロトタイプと大排気量スポーツカーのラップ・タイムは、ほとんど10分台となっていた。Miles/McLaren組の FORD GTは実際、雨の中 16分もかかっていた。視界は劣悪な状況で、Cobra Daytonaのドライバーは、飛行場の駐機場に迷い込んだりした。彼の後を追っていたマシンも続いて駐機場に迷い込む始末。コースラインを示すパイロンは雨ですべて洗い流されていたのだ。モンスーンの雨の中、レースは続行された。

 Phil Hillの #16 Cobra Daytona Coupeは1周するのに2度もドアを開けて、水を排出しなければならなかった。彼によると雨水は腰まで浸かり、コクピットの中で前後に波のようにしぶきを上げていたという。数台のクルマがピットインし、雨水の抜き穴を開ける羽目となった。

 2位を走っていた Hill/Rodriguez組の Ferrariは2度も排水作業を行なったが、2度目の排水作業時にミッションが2段しか残されていないことが発見された。これはGraham Hillではなく、Pedro Rodriguezの仕業だった。彼はレースの初期の段階で2速ギアを吹き飛ばしていたのだ。正午のドライバー交代時に Hillは2速が失われていることに気づき驚いた。メカニックの間では Rodriguezがクラッチを切ってシフトすることを好んでいない、という噂が広まっていた。

 すべてのレーサーが豪雨に行く手を阻まれていた。小排気量のセダンやスポーツカーはアクアプレーニング現象に悩まされることなく、細いタイアで水を切り裂いて走った。#61 Sebring Sprite Clive Baker/Rauno Aaltonen組は短時間ではあるが、Ford GTを3度も抜き去り、#62 Sebring Spriteの Paddy Hopkirk/Timo Makinen組は雨の中リードしていた Chaparralを4回も抜き去った。#62 Spriteは 15位、#62は18位と大健闘したが、これは雨によるものだった。

1965 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 3


 Dan Gurneyの #23 All American Lotus 19J-Fordは、Jim Hallの Chaparralに抜かれるまで数ラップはトップの位置にいた。お昼ごろにドライバー交代で Hallがピットインした際に Gurneyは再び抜き去り、43周目でチェーン駆動のオイルポンプが故障するまでトップの位置を守った。残念ながらコ・ドライバーの Jerry Grantがステアリングを握ることはなかった。報道関係者は Gurneyの Sebring参戦に関して、いろいろな憶測を報道していた。曰く、Gurneyは FORDのエンジンを使用、そして彼の All AmericanチームはCarroll Shelbyと提携している。それにより、Gurney Lotusは Chevyエンジンを搭載する Chaparralのペースアップを目論んだ“rabbit”の役目を負っていたというもの。結果的には、この速いペースにより FORDの目論見は外れてしまうのだが……。
 
 午前中の早い時間から救急隊員は、いつもより大忙しだった。2人のドライバーが熱中症で治療を受けたが、後にレースに復帰した。Rainville/Gammino組の Bizzarrini Iso Grifo A3Cがブレーキの故障で観客エリアに突っ込み、停まっていた見物客のクルマに軽く衝突、2人のレース・ファンが軽傷を負った。Cobraのメカニックは電線に接触し怪我を負った。12時間レースは、長く興味深い1日となっていった。


2時間の激走で疲れた表情の Jim Hall


盟友 Hap Sharpと交代。


#23 All American Lotus 19J-Ford、オイルポンプの故障でリタイア。


悔しそうな Dan Gurney。


Silvio Moserの Iso Grifo A3C。16周目にクラッシュしている。Iso Grifoは2台ともクラッシュで完走しなかった。


‘The Little Mexican’Pedro Rodriguez。かろうじて前が見えている様。身長 1m65cmしかない彼は Ferrari 330Pを操り、果敢にコーナーを攻めていた。



 記録的な暑さと荒れた路面の Sebringは容赦なく、マシンに高い通行料を請求していた。次々とクルマはピットに送り込まれ、ラジエターから水蒸気を噴出させていた。ちょうど午後1時に3位で快走していた #4 Jennings/Hissom組の Chaparralがピットイン。バッテリーの不調だったが、サーキットの猛暑が原因だった。修理には45分もかかってしまった。後にもトラブルが続出して #4 Jennings/Hissom組は22位でフィニッシュとなる。


 37周目に Phil Hill/Richie Ginther組の #10 Shelby Ford GTは猛暑によるサスペンションの故障でリタイアとなった。これは64年のル・マン同様、熱によりサスペンション・ブラケットがひび割れてしまったのが原因だった。 Lew Spencerが熱中症で倒れたため、Phil Hillが #16 Shelby Cobra Daytona Coupeに乗り込んだ。

 

Umberto Maglioi/Giancarlo Baghetti組の Ferrari 275P


#56 Alfa Romeo Guilia TZはトラブル続きだったが、24位で完走、GT1.6クラスで2位となった。


若き Mark Donohueが操る Mecom's Ferrari 250LM。11位でフィニッシュ。クラス2位となった。


プライベート参加の David Piper/Tony Maggs組の Ferrari 250LM。3位となった。

1965 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 2


 テキサス州はミッドランドからやって来た超軽量の CHAPARRALには注目が集まったが、予選での最速ラップタイムのスピードには皆が度肝を抜かれた。Jim Hall/ Hap Sharp組の CHAPARRALは2分57.6秒、169.44km/hのコース・レコードを打ち立てた。これは前年に John Surteesが Ferrariによって記録したものよりも9秒も速く、Sebringの3分の壁を初めて打ち破ったのである。
 
 予選の結果は、他の Chaparralも Bruce Jennings / Ronnie Hisson組が2位、Shelbyの Ford GTは Ken Miles / Bruce McLaren組が3位、Phil Hill / Richie Ginther組が4位、All Americanチームの Lotus-Ford 19J Dan Gurney / Jeremy Grant組が5位、Lola T70の John Cannon / Jack Saunders組が6位。残り10位までは、すべて FERRARIに占められていた。

 3月27日(土曜日)の朝、オレンジ畑は朝靄に包まれていたが、すぐに日が昇りフロリダの暑い日差しによって午前中に気温は急上昇した。レース当日の天気予報は晴れで、気温は 21℃〜28℃を予測していた。ところが朝8:30までに気温は 32℃まで急上昇し、湿度も不快な指数まで近づいていた。

 運命の女神は木曜日〜金曜日にかけて到着したレースファンに微笑んだ。会場周辺では入場ゲートに連なる渋滞が20kmにも及んでいた。長い渋滞の所為でオーバーヒートするクルマが続出、ストレスは頂点に達していた。午前10時のスタート開始後、3時間経っても入場できない人がいたくらいである。


Englishman Graham Hill and ‘The Little Mexican’ Pedro Rodriguez

 Sebringはクルマのみならず、観客も耐久レースの様相を帯びてきていた。耐久レースの聖地ル・マンと比べると、Sebringにはそのようなアメニティー施設が皆無であり、観客にただレースを見物させるのみとなっていた。記録的に殺到した群衆が長い列をつくり、その状況を悪化させた。

 群衆は狂ったように酒を飲み、女の子は半裸同然の様相だった。悪臭が漂っていたが、それはマリファナを吸引することによるものであった。65年だけでなく現在も春休みの楽しみを求めた大学生で Sebringはにぎわっている。ドンチャン騒ぎで騒々しい観客席は当局から“動物園”と揶揄された場所である。酔っぱらったり、マリファナでハイになった大学生が服を脱ぎ捨てたりしているのが普通で、この時の体験が Sebringが一層伝説的なものとなった要因となっている。

 プロモーターの Alec Ulmannと妻は、若者が大騒ぎする大顰蹙のレースが市民権を得るためにパドックの近くにおもてなしのテントを設置した。Automobile Racing Club of Florida (ARCF)によって提供された大テントには、着飾ったパトロン(多くはパーム・ビーチから招待された)たちが招待され、カエルの足(!)やタラバガニの足、メロンやタルトなどの御馳走が食べ放題となっていた。しかも12時間のレース中、酒も飲み放題い。冷たいビールを飲もうとすれば、もしかしたらフロリダ州知事や宇宙飛行士のGus Grissomや Gordon Cooperと肘をこする可能性もあったのである! ここに出入りするためにはカップルで$100を支払う必要があった(当時の邦貨にして大卒初任給の3カ月分)。 出入りできるのは、フロリダのごくわずかの人間だった。群衆をコントロールする警備員はテントの入り口に多く配備される有様であり、ル・マンの再現とは程遠いものとなってしまった。

1965 Sebring 12-Hour Grand Prix of Endurance – The Start

 午前9:30までにすべてのクルマがスターティング・グリッドに並べられた。温度は観客席で 34℃、路面温度は 54℃となっていた。フロリダ州知事は午前 10:10にスタート・フラッグを振り下ろす権限を与えられ、それで 67人のドライバーは 25フィート離れたクルマまで走って乗り込むというル・マン方式でスタートすることとなる。

 スタートするまで Shelbyのメカニックたちは Cobra Daytona Coupeの暖機運転を続けていたが、炎天下で座らされていたドライバー4人の内2人が交代となった。原因は灼熱の太陽とエンジンの暖機熱であった。Carroll Shelby個人所有 Ed Leslieの Cobra Daytona Coupe、スタートから僅か12フィートでエンジン・ストール。そこに後ろから Art Rileyの #51 Volvo P1800が追突、両車はピットで応急処置ですぐにレースに復帰、ダメージを受けた Cobraは、その後テール・ライトの修理で再度ピットイン。結果13位でフィニッシュするが、クラス3位の成績となった。 Leslieが最初の応急修理でコースに復帰した時に、運転席のドアが閉まらないことに気付いた。その後、交代した Allen Grantは右ターンの際にドアにその都度しがみつきながら走った!




 幸先の良いスタートを切ったのは Delmo Johnsonの“Lightweight” Corvette Grand Sportである。彼は前年の Sebringにも Corvetteで出場していたが、“porcupine head”(ヤマアラシの頭)と称された新型の 396-c.u.エンジンを搭載していた。これはシボレー工場から送り出された最初の big block racing engineであり、シェビーの主任技術者であった Zora Duntovがまとめ上げたモノである。General Motorsと Chevroletは正式にレースからの撤退を表明していたにもかかわらず、Delmo Johnsonと Jim Hallの Chaparralに対し“裏口”から援助していたのであった。

 Corvette Grand Sportがスタートで飛び出せることができたのは、スターターを押す前に既にギアが1速に入れられており、しかも CHAPARRALのドライバー達が安全ベルトを締めるのに躊躇している間に締めないでスタートしたからである。また彼はきちんとドアを閉めずにスタート。2ラップするまで安全ベルトを締めることはしなかった。


 Richie Gintherの #10 Shelby American Ford GTは、すぐに WebsterコーナーでCorvetteに追いつき抜き去った。しかし、すぐに足回りの異音でピットイン。マグネシウム・ホイールとブレーキ・キャリパーの接触が原因である。アルミニウム・ホイールと交換が行われた。

1965 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 1

 1965年の Sebring 12 Hour。ドライバーはもちろんのこと、メカニック、レース・オフィシャル、観客、その誰もが、このレースを忘れ去ることはできないであろう。
 5万人以上の観客がサーキットに押し寄せたが、その誰もが失望することはなかった。それほど素晴らしいレースだったのだ。
 レース展開はドラマチックなものであったし、その裏話も含めて伝説のように語られ、多くの関連書籍が出版されている。まさにモーター・スポーツの黄金時代と呼ぶべき60年代のレースとして、これからも語り継がれるのであろう。
 また表向きはプライベーターのみのレースであったが、実態はシボレーやフォード、フェラーリによる代理レースであった。

 65年のセブリング12時間は、スムーズに運営されたわけではなかった。このレースのプロモーターである Alec Ulmannは FIAに掛け合い、プロトタイプや排気量 3000cc以上のクルマを混走できるように規約を改正させた。同年1月の事である。
 これにより、北米では一般的なビッグブロックのV8エンジンを搭載したマシンが、ヨーロッパの洗練されたマシンに充分対抗できるものと知らしめるチャンスだと考えた Ulmannは、CHEVROLETのV8を搭載したテキサスの石油野郎 Jim Hallの Chaparralをレースに招待することにした。
 CHAPARRALチームの招待という Ulmannの決定は、北米のスポーツカー・ファンだけにとどまらず、耐久レースの有名どころ Chevy, Fordや Ferrariもがセブリング12時間レースに注目することとなった。
 CHAPARRALは 5.4リッター、アルミブロックの CHEVROLET製エンジンを搭載し、秘密のオートマチック・ギアボックスを搭載していた。64年に CHAPARRALは SCCA(Sports Car Club of America)主催の United States Road Racing Championship (USRRC)に優勝している。しかし USRRCは2時間ほどのレースであったが、セブリングは12時間という長丁場だ。マシンの耐久性には疑問があった。Jim Hallは2月末にセブリングへマシンを持ち込み数日にわたりテストが行われた。その結果は充分満足できるものであった。
  Fordと Ferrariは CHAPARRALよりも600ポンドも車重が重いというハンディを背負っていた。これにより CHAPARRALはセブリング12時間に於いてダークホース的な存在となった。
 1964年から開始された FORDによる FERRARI打倒計画の拠点は英国 FAV(Ford Advanced Vehicles)に委ねられていたが、FERRARIを打ちのめすプロタイプ開発の試みは、64年シーズンに完走車が1台もないという惨めな結果に終わっていた。その年の終わりに Henry FordⅡは、Cobraで64年を征した Carroll Shelbyに開発を委ねた。Shelbyは同年のセブリングに於いて上位10位以内に5台の Cobraをフィニッシュさせていた。FORDは Shelbyが勝利のノウハウを知り得ていると確信し、彼のキャラクターが広告宣伝にも大いに利用できると目論んでいた。
 65年シーズンの開幕戦である Daytona Continental 2000kmに FORD GTは初優勝という幸先の良いスタートを切った。Shelby Americanに FORDが委託してからたった2ヶ月で勝ち取った快挙であった。


The #23 All American Lotus 19J-Ford driven by Dan Gurney and Jerry Grant. It sported a 4.7 liter Ford Cobra engine.

 65年のセブリング12時間レースは、長年 FERRARIが保持していた FIAのマニュファクチャーズ・タイトルに於いて、唯一北米勢がポイントを得たレースである。
 FORDはタイトルの獲得を目指し、スポーツカー・レースへの参戦を 63年1月に決定する。これには戦後のベビーブームで増大した若者に対する FORDのイメージ・アップという企業目的があった。そして同年4月に経営不振に陥っていた FERRARIとの間で行われた買収交渉が Enzo Ferrariからの一方的な交渉打ち切り宣告により決裂したことへの復讐心が Henry FordⅡにあったと言われている。
 Henry FordⅡは数百万ドルの巨費を投じて事実上の“打倒 FERRARI”計画に着手した。今日、多くの著作で称される“The Ford – Ferrari Wars”の開始である。セブリング12時間で勝利せよとの命令が下されたのである。
 フロリダ州で行われるセブリング12時間レースに Shelbyは6台のマシンを投入、1ヶ月前に行われたデイトナでの勝利の再来を夢見た。6台の内訳は、2台の FORD GTと4台の Cobra Daytona Coupe(Pete Brockによるデザイン)である。それに加え12人のドライバーと20名以上のメカニックが投入された。FORDは、このレースで優勝することを望み、巨額の資金を投入していた。
 Cobra Daytona Coupeは重要なGTクラスのポイント獲得の使命を帯びていた。セブリングの賞金総額は4万ドルであり、ドライバーが獲得するのは2千ドル前後。明らかに優勝賞金がレースの目的ではなかった。それに起因する広告宣伝効果を狙っていたのである。

 Enzo Ferrariは主催者の Ulmannが CHAPARRALのような大排気量のスポーツカーを参戦できるように FIAに対して工作したことが大いに不満だった。Ferrariは過去4年のセブリング12時間に於いて優勝するという実績がありながら、公式にファクトリー・チームをセブリングから撤退させるという実力行使に出た。彼らのマシンよりも軽くて速い CHAPARRALの参戦を認めたことが事態をより悪化させた。Ferrariは親友でもある北米 Ferrariの Luigi Chinettiによる North American Racing Team(NART)のレース参戦も認めなかった。世界GPチャンピオンの John Surteesでさえ、Ferrariとの契約によりレースへの参加を許されなかった。
 Ferrariは後に周囲の説得に折れて、彼の最速のマシンとドライバーとメカニックをプライベート・チームとしてレースに出場させることを承諾した。John Surteesはセブリングに於けるエンツォの最高のマシンとして投入される 330Pのコンサルタントとしてセブリング12時間に参加することを許された。#30は白に塗られたボディーにブルーのレーシングストライプが施されており、排気量4リッターの Super Americaのエンジンが搭載されていた。そのマシンはテキサス州ヒューストンの石油業者を経営する John Mecomに貸与され、Graham Hill / Pedro Rodriguez組によって参戦することとなった。
 330Pに加えて Mecom Racingは他に2台のマシンをセブリングに投入した。1台はJohn Cannon / Jack Saunders組による #22 Lola T70 Mk.1-Fordである。英国の Lolaが北米のレースに出場するのはセブリングが初めてであった。残る1台が#29 Ferrari 250 LMでドライバーは Mark Donohue / Walt Hansgen組。Donohueはプロとしての初レースだった。Mecom Racingのメカニックは Lola T70 Mk.1-Fordと Ferrari 250 LMを担当、Ferrariのメカニックは 330Pだけを整備したことに注目したいところ。

 セブリングにはもう1台参戦した Ferrariがある。#33 Ferrari 275Pだ。テキサス州オースチンKleiner Racing Enterprisesに貸与された。ドライバーは Umberto Maglioli / Giancarlo Baghetti組。“プライベート・エントリー”と称された、この2つのチームには Ferrariから派遣されたメカニックの応援を自由に受けたり、トランスポーターの使用も許されていた。Enzo Ferrariは彼らに貸与したマシンがライバルのアメリカ製マシンよりも速くもなくパワフルでない事も知ってはいたが、過去の実績で耐久性の高さを買っていた。

 Mecomと Kleinerの2つのプライベート・チームを支援するために急遽 Ferrari Owners Racing Association(FORA)が組織された。Mecomと Kleinerだけではなく、この協会に参加するすべてのチームが支援を受けることになった。

トヨタ博物館 クラシック・カー・フェスタ 神宮外苑 Part3

50〜60年代のアメリカ車には、良くも悪くも世界の支配者としての誇りと自信がみなぎっていたように思う。


1955 Chevrolet Corvette



1957 Plymouth Fury




1958 Chevrolet Impala Hardtop Sport Coupe
嗚呼、これこそ16歳の時に観た映画“American Graffiti”(通称アメグラ)にて、冴えないテリー・ザ・タイガーをモテル男に見せかけたクルマ。
「ダリル・スターバードのスーパーフレック・ムーンバードより凄い!」とテリーは劇中叫び感動しておりました。
ベンチシートというのは子孫繁栄にも有効なものであることを映画でも証明しておりました(笑)。



そのテリーがナンパした、デビー役の Candy Clark嬢の写真とサインに大興奮!





1957 Ford Thunderbird
アメグラ劇中、カート役 Richard Dreyfussが一目ぼれしたコールガールが乗っていたクルマで有名。