1965 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 2


 テキサス州はミッドランドからやって来た超軽量の CHAPARRALには注目が集まったが、予選での最速ラップタイムのスピードには皆が度肝を抜かれた。Jim Hall/ Hap Sharp組の CHAPARRALは2分57.6秒、169.44km/hのコース・レコードを打ち立てた。これは前年に John Surteesが Ferrariによって記録したものよりも9秒も速く、Sebringの3分の壁を初めて打ち破ったのである。
 
 予選の結果は、他の Chaparralも Bruce Jennings / Ronnie Hisson組が2位、Shelbyの Ford GTは Ken Miles / Bruce McLaren組が3位、Phil Hill / Richie Ginther組が4位、All Americanチームの Lotus-Ford 19J Dan Gurney / Jeremy Grant組が5位、Lola T70の John Cannon / Jack Saunders組が6位。残り10位までは、すべて FERRARIに占められていた。

 3月27日(土曜日)の朝、オレンジ畑は朝靄に包まれていたが、すぐに日が昇りフロリダの暑い日差しによって午前中に気温は急上昇した。レース当日の天気予報は晴れで、気温は 21℃〜28℃を予測していた。ところが朝8:30までに気温は 32℃まで急上昇し、湿度も不快な指数まで近づいていた。

 運命の女神は木曜日〜金曜日にかけて到着したレースファンに微笑んだ。会場周辺では入場ゲートに連なる渋滞が20kmにも及んでいた。長い渋滞の所為でオーバーヒートするクルマが続出、ストレスは頂点に達していた。午前10時のスタート開始後、3時間経っても入場できない人がいたくらいである。


Englishman Graham Hill and ‘The Little Mexican’ Pedro Rodriguez

 Sebringはクルマのみならず、観客も耐久レースの様相を帯びてきていた。耐久レースの聖地ル・マンと比べると、Sebringにはそのようなアメニティー施設が皆無であり、観客にただレースを見物させるのみとなっていた。記録的に殺到した群衆が長い列をつくり、その状況を悪化させた。

 群衆は狂ったように酒を飲み、女の子は半裸同然の様相だった。悪臭が漂っていたが、それはマリファナを吸引することによるものであった。65年だけでなく現在も春休みの楽しみを求めた大学生で Sebringはにぎわっている。ドンチャン騒ぎで騒々しい観客席は当局から“動物園”と揶揄された場所である。酔っぱらったり、マリファナでハイになった大学生が服を脱ぎ捨てたりしているのが普通で、この時の体験が Sebringが一層伝説的なものとなった要因となっている。

 プロモーターの Alec Ulmannと妻は、若者が大騒ぎする大顰蹙のレースが市民権を得るためにパドックの近くにおもてなしのテントを設置した。Automobile Racing Club of Florida (ARCF)によって提供された大テントには、着飾ったパトロン(多くはパーム・ビーチから招待された)たちが招待され、カエルの足(!)やタラバガニの足、メロンやタルトなどの御馳走が食べ放題となっていた。しかも12時間のレース中、酒も飲み放題い。冷たいビールを飲もうとすれば、もしかしたらフロリダ州知事や宇宙飛行士のGus Grissomや Gordon Cooperと肘をこする可能性もあったのである! ここに出入りするためにはカップルで$100を支払う必要があった(当時の邦貨にして大卒初任給の3カ月分)。 出入りできるのは、フロリダのごくわずかの人間だった。群衆をコントロールする警備員はテントの入り口に多く配備される有様であり、ル・マンの再現とは程遠いものとなってしまった。

1965 Sebring 12-Hour Grand Prix of Endurance – The Start

 午前9:30までにすべてのクルマがスターティング・グリッドに並べられた。温度は観客席で 34℃、路面温度は 54℃となっていた。フロリダ州知事は午前 10:10にスタート・フラッグを振り下ろす権限を与えられ、それで 67人のドライバーは 25フィート離れたクルマまで走って乗り込むというル・マン方式でスタートすることとなる。

 スタートするまで Shelbyのメカニックたちは Cobra Daytona Coupeの暖機運転を続けていたが、炎天下で座らされていたドライバー4人の内2人が交代となった。原因は灼熱の太陽とエンジンの暖機熱であった。Carroll Shelby個人所有 Ed Leslieの Cobra Daytona Coupe、スタートから僅か12フィートでエンジン・ストール。そこに後ろから Art Rileyの #51 Volvo P1800が追突、両車はピットで応急処置ですぐにレースに復帰、ダメージを受けた Cobraは、その後テール・ライトの修理で再度ピットイン。結果13位でフィニッシュするが、クラス3位の成績となった。 Leslieが最初の応急修理でコースに復帰した時に、運転席のドアが閉まらないことに気付いた。その後、交代した Allen Grantは右ターンの際にドアにその都度しがみつきながら走った!




 幸先の良いスタートを切ったのは Delmo Johnsonの“Lightweight” Corvette Grand Sportである。彼は前年の Sebringにも Corvetteで出場していたが、“porcupine head”(ヤマアラシの頭)と称された新型の 396-c.u.エンジンを搭載していた。これはシボレー工場から送り出された最初の big block racing engineであり、シェビーの主任技術者であった Zora Duntovがまとめ上げたモノである。General Motorsと Chevroletは正式にレースからの撤退を表明していたにもかかわらず、Delmo Johnsonと Jim Hallの Chaparralに対し“裏口”から援助していたのであった。

 Corvette Grand Sportがスタートで飛び出せることができたのは、スターターを押す前に既にギアが1速に入れられており、しかも CHAPARRALのドライバー達が安全ベルトを締めるのに躊躇している間に締めないでスタートしたからである。また彼はきちんとドアを閉めずにスタート。2ラップするまで安全ベルトを締めることはしなかった。


 Richie Gintherの #10 Shelby American Ford GTは、すぐに WebsterコーナーでCorvetteに追いつき抜き去った。しかし、すぐに足回りの異音でピットイン。マグネシウム・ホイールとブレーキ・キャリパーの接触が原因である。アルミニウム・ホイールと交換が行われた。