1965 Sebring 12 Hour Endurance Race Part 1
1965年の Sebring 12 Hour。ドライバーはもちろんのこと、メカニック、レース・オフィシャル、観客、その誰もが、このレースを忘れ去ることはできないであろう。
5万人以上の観客がサーキットに押し寄せたが、その誰もが失望することはなかった。それほど素晴らしいレースだったのだ。
レース展開はドラマチックなものであったし、その裏話も含めて伝説のように語られ、多くの関連書籍が出版されている。まさにモーター・スポーツの黄金時代と呼ぶべき60年代のレースとして、これからも語り継がれるのであろう。
また表向きはプライベーターのみのレースであったが、実態はシボレーやフォード、フェラーリによる代理レースであった。
65年のセブリング12時間は、スムーズに運営されたわけではなかった。このレースのプロモーターである Alec Ulmannは FIAに掛け合い、プロトタイプや排気量 3000cc以上のクルマを混走できるように規約を改正させた。同年1月の事である。
これにより、北米では一般的なビッグブロックのV8エンジンを搭載したマシンが、ヨーロッパの洗練されたマシンに充分対抗できるものと知らしめるチャンスだと考えた Ulmannは、CHEVROLETのV8を搭載したテキサスの石油野郎 Jim Hallの Chaparralをレースに招待することにした。
CHAPARRALチームの招待という Ulmannの決定は、北米のスポーツカー・ファンだけにとどまらず、耐久レースの有名どころ Chevy, Fordや Ferrariもがセブリング12時間レースに注目することとなった。
CHAPARRALは 5.4リッター、アルミブロックの CHEVROLET製エンジンを搭載し、秘密のオートマチック・ギアボックスを搭載していた。64年に CHAPARRALは SCCA(Sports Car Club of America)主催の United States Road Racing Championship (USRRC)に優勝している。しかし USRRCは2時間ほどのレースであったが、セブリングは12時間という長丁場だ。マシンの耐久性には疑問があった。Jim Hallは2月末にセブリングへマシンを持ち込み数日にわたりテストが行われた。その結果は充分満足できるものであった。
Fordと Ferrariは CHAPARRALよりも600ポンドも車重が重いというハンディを背負っていた。これにより CHAPARRALはセブリング12時間に於いてダークホース的な存在となった。
1964年から開始された FORDによる FERRARI打倒計画の拠点は英国 FAV(Ford Advanced Vehicles)に委ねられていたが、FERRARIを打ちのめすプロタイプ開発の試みは、64年シーズンに完走車が1台もないという惨めな結果に終わっていた。その年の終わりに Henry FordⅡは、Cobraで64年を征した Carroll Shelbyに開発を委ねた。Shelbyは同年のセブリングに於いて上位10位以内に5台の Cobraをフィニッシュさせていた。FORDは Shelbyが勝利のノウハウを知り得ていると確信し、彼のキャラクターが広告宣伝にも大いに利用できると目論んでいた。
65年シーズンの開幕戦である Daytona Continental 2000kmに FORD GTは初優勝という幸先の良いスタートを切った。Shelby Americanに FORDが委託してからたった2ヶ月で勝ち取った快挙であった。
The #23 All American Lotus 19J-Ford driven by Dan Gurney and Jerry Grant. It sported a 4.7 liter Ford Cobra engine.
65年のセブリング12時間レースは、長年 FERRARIが保持していた FIAのマニュファクチャーズ・タイトルに於いて、唯一北米勢がポイントを得たレースである。
FORDはタイトルの獲得を目指し、スポーツカー・レースへの参戦を 63年1月に決定する。これには戦後のベビーブームで増大した若者に対する FORDのイメージ・アップという企業目的があった。そして同年4月に経営不振に陥っていた FERRARIとの間で行われた買収交渉が Enzo Ferrariからの一方的な交渉打ち切り宣告により決裂したことへの復讐心が Henry FordⅡにあったと言われている。
Henry FordⅡは数百万ドルの巨費を投じて事実上の“打倒 FERRARI”計画に着手した。今日、多くの著作で称される“The Ford – Ferrari Wars”の開始である。セブリング12時間で勝利せよとの命令が下されたのである。
フロリダ州で行われるセブリング12時間レースに Shelbyは6台のマシンを投入、1ヶ月前に行われたデイトナでの勝利の再来を夢見た。6台の内訳は、2台の FORD GTと4台の Cobra Daytona Coupe(Pete Brockによるデザイン)である。それに加え12人のドライバーと20名以上のメカニックが投入された。FORDは、このレースで優勝することを望み、巨額の資金を投入していた。
Cobra Daytona Coupeは重要なGTクラスのポイント獲得の使命を帯びていた。セブリングの賞金総額は4万ドルであり、ドライバーが獲得するのは2千ドル前後。明らかに優勝賞金がレースの目的ではなかった。それに起因する広告宣伝効果を狙っていたのである。
Enzo Ferrariは主催者の Ulmannが CHAPARRALのような大排気量のスポーツカーを参戦できるように FIAに対して工作したことが大いに不満だった。Ferrariは過去4年のセブリング12時間に於いて優勝するという実績がありながら、公式にファクトリー・チームをセブリングから撤退させるという実力行使に出た。彼らのマシンよりも軽くて速い CHAPARRALの参戦を認めたことが事態をより悪化させた。Ferrariは親友でもある北米 Ferrariの Luigi Chinettiによる North American Racing Team(NART)のレース参戦も認めなかった。世界GPチャンピオンの John Surteesでさえ、Ferrariとの契約によりレースへの参加を許されなかった。
Ferrariは後に周囲の説得に折れて、彼の最速のマシンとドライバーとメカニックをプライベート・チームとしてレースに出場させることを承諾した。John Surteesはセブリングに於けるエンツォの最高のマシンとして投入される 330Pのコンサルタントとしてセブリング12時間に参加することを許された。#30は白に塗られたボディーにブルーのレーシングストライプが施されており、排気量4リッターの Super Americaのエンジンが搭載されていた。そのマシンはテキサス州ヒューストンの石油業者を経営する John Mecomに貸与され、Graham Hill / Pedro Rodriguez組によって参戦することとなった。
330Pに加えて Mecom Racingは他に2台のマシンをセブリングに投入した。1台はJohn Cannon / Jack Saunders組による #22 Lola T70 Mk.1-Fordである。英国の Lolaが北米のレースに出場するのはセブリングが初めてであった。残る1台が#29 Ferrari 250 LMでドライバーは Mark Donohue / Walt Hansgen組。Donohueはプロとしての初レースだった。Mecom Racingのメカニックは Lola T70 Mk.1-Fordと Ferrari 250 LMを担当、Ferrariのメカニックは 330Pだけを整備したことに注目したいところ。
セブリングにはもう1台参戦した Ferrariがある。#33 Ferrari 275Pだ。テキサス州オースチンの Kleiner Racing Enterprisesに貸与された。ドライバーは Umberto Maglioli / Giancarlo Baghetti組。“プライベート・エントリー”と称された、この2つのチームには Ferrariから派遣されたメカニックの応援を自由に受けたり、トランスポーターの使用も許されていた。Enzo Ferrariは彼らに貸与したマシンがライバルのアメリカ製マシンよりも速くもなくパワフルでない事も知ってはいたが、過去の実績で耐久性の高さを買っていた。
Mecomと Kleinerの2つのプライベート・チームを支援するために急遽 Ferrari Owners Racing Association(FORA)が組織された。Mecomと Kleinerだけではなく、この協会に参加するすべてのチームが支援を受けることになった。